Chaos Smart

「私は、私が無知であることを知っている」 複雑性、物事の根本に関わる深い叡智をえるブログ

権威という力を利用して目の前に座っているクライエントに何か伝達しようと思った時点で、カウンセラーは敗北している。

セラピーが成功するために、最低限できてなければいけない要件のいくつかに、転移・逆転移のハンドリグや「依存」の除去があります。

 

にもかかわらず、カウンセラー自身が意識的・無意識的に「依存」を生み出している例が散見する。

 

インテーク面接(初めてのセッション)で、治療課題とアプローチの確定、クライエントとの関係性の構築をやるのは当たり前なのだが、この関係性がどうもおかしいことが多い。

「依存」がある限りにおいて、関係原則の1つである、セラピーの目標と課題を協同しながら考えること「作業同盟」が守られない。また、状況に応じた処理や、課題の完遂、主体性と選択の促進も守られない。

 

カウンセラーは、このセッションを通して、これから複数回つづくセッションのセラピー効果の最大化を狙い(クライエントに必要な介入や、情報を伝達できるメリットの最大化)、おのずと権威づけをすることが習慣になっている。治療効果を出すためのピュアなプレッシャーからも、ビジネス的な損得を考えてもこの傾向が強くでる。

 

結局は、ほとんどのカウンセラーにとって、クライエントは問題を抱えた病人であり患者でしかなく、治す人と治される人というパラダイムが、患者をクライエントと呼称を変えたところで、パラダイムが変わっていない。

 

権威づけを生み出す力がコーチに働くようでは、コーチングセッションでもダメですが、カウンセリング空間では本当にダメでは済まない問題となる理由がある。

 

カウンセラーの態度・思惑以前に、

 

クライエントの側が、自分よりカウンセラーの方が一段高い存在へと無意識的に押し上げ存在していないはずの権威を生み出そうとする傾向がある。

おそらく、セラピーを受けなければいけないと判断している状況のクライエントにとって、この方が、有力感を覚えるカウンセラーに依存することができるため潜在的なニーズになっている可能性が大きい。

 

解決できない問題を抱えている人間が、カウンセラーを自分よりワンナップ(高い存在)へと押し上げることで、自らの判断を放棄し、考えることなく、カウンセラーの描く自己像を取り入れることができるためかもしれない。

 

このような主体性の放棄は、自分で考えた末に蟻地獄に陥ってしまったクライエントにとって、どこか酔いに似た快楽を与えてくれるのだろう。

自我の放棄は、依存⇒「帰依」につながるので、カリスマ化したカウンセラーの周辺にはそのようなクライエントが集まってくる。実際によく見る景色です。

 

セッションに来るクライエントの精神的状況からして、このような傾向が一般的なわけで、その状況・空間において、カウンセラーの力を利用すれば、いとも簡単にクライエントを依存させることはできる。

 

ワンナップされて楽になりたい人(カウンセラー)とワンナップして楽になりたい人(クライエント)という構図ができあがっている。

 

こちらを仰ぎ見ることによって生まれる関係性は宗教的な信仰にも通じるから、その気になればカリスマ教祖的存在になることも不可能ではない。

カウンセリングにおける宗教的要素そのものは重要なポイントであることは否定しないが、セラピストが実践するカウンセリングは宗教と一線をきさないといけない。

つまり、力の行使に関して最大限自覚的でなければならない。

 

権威という力を利用して目の前に座っているクライエントに何か伝達しようと思った時点で、カウンセラーは敗北している。

 

理由は簡単で、そこに生まれる支配と依存の関係は、カウンセリングの中心となる言葉の力を削ぐからだ。これでは、クライアントがもともと有する力によって、新たな自己発見の場そのものに、カウンセリング空間がなることは不可能に近い。

 

この敗北を回避する方法は、いくつかあるが、簡単なものを提示すると、

 

関係を揺らがすことで回避すればいい。

 

たとえば、観客からの評価を渇望しているカウンセラー役の演技者にでもなればいい。このことによるメタメッセージは、クライエントにとっては強烈な混乱が起きる。自分の悩みが適切に理解されているかどうか、治療効果が発生するかどうかにフォーカスしてセッションを終えるのが当たり前のクライエントにとって、カウンセラー自身が評価を気にしていることが全面に出てくることで、訳が分からない距離感と関係が生まれる。おのずと相対的に依存度がさがる結果となる。

 

このとても曖昧な距離感と空間が適切に管理できているかどうかが、プロフェッショナルのエッジであると考えています。

 

あわせて、依存の除去とは違ったところで、敗北しているセラピストへのヒント。

感情調整よりも大事なことは、調整不全に陥っている自己組織化されているメカニズムの回復に努めること。

 

内的な感情問題を解決するクライエントを手助けする際に、クライエントはセッション中にさまざまな問題状態を示します。

 

その体験プロセスを深めるために、一次感情の要求と表現、痛みを伴う未解決の感情の受容と変容、まだ気づかれていない感情や意味の明確化によって、体験プロセスが深められるアプローチがとれているかどうかを確認すること。

 

セラピーでは、体験をすぐに処理したり、変えたり、修復したりしようとするのではなく、体験を許容し、受け入れるプロセスを目指す。

 

具体的には、

 

感情の取り扱いについて、ただ解放反応のみにフォーカスすること、認知にフォーカスすることでは、足りないです。

 

適応感情と不適応感情の両方を体験することが治療的変容において鍵となる役割を果たすことを重視すべきであって、介入の焦点を認知や行動から感情へと移行させられるかどうか。この実践における核心は、概念知と体験知を区別することにあります。

 

体験の中にある感情を除去するためのカタルシスとして感情表出を繰り返すのではなく、感情を体験し、受け入れ、感情から「情報」が得られるように促すことです。

 

セラピストは、クライエントが何を体験しているのか、あるいは何を体験すべきかを示す専門家ではないです。そうではなく、クライエントがどのように体験を深めていくのかを示す専門家です。私が技法を用いるのは、クライエントにある特定の体験を強いるためではなく、体験が起こりうる状況をつくるためである。

 

 

 

直感的にやろう。ではなく、ベストな瞬間に至った時にだけ、しばしば現れる特質でしかない「直感」を扱うのが、本物のセラピスト

セラピストとして大事にしていることは何かと最近は、よく聞かれるので、それに関する回答のエントリです。

ファシリテーションにおける学習の主人公は、学習者である。ということと同じく、セラピーにおいて、仕事をするのは患者です。セラピストは、単に仕事場を提供するだけです。

仕事場の提供に関して、学際的な技術を多用しますが、よく使うアプローチとしては、自己批判は自己理解への一歩であるというリフレーミングと、重視しているものとして、解放反応と患者の精神的なプロセスの見方を完全にしてあげること。端的にいうと、広がりのある見方ができるようにするだけです。つまり、問題が問題ではなくなる手伝いをしています。

 

この「解放反応と患者の精神的なプロセスの見方を完全にしてあげること。」を行うには、「場」そのものにセラピストがなれるかが重要だと感じています。

 

クライアントの「場」そのものになる方法は、

 

結論は、無我(know nothing state)になって、究極のカリブレーションと、究極のトランスで相手と向き合って、状況を全有機的に、全心身を使って感じ取ること。

 

セラピィがベストな瞬間に至った時にだけ、しばしば現れる特質でしかない、ピュアな直感を使うこと。(直感的にやろう。と考えてやる行為とはあまりにも違います。)

 

これをもって、

クライアントに、「他の人と共にいながらにして、『ひとり』になれる」状態を創ってあげることです。

 

よく言われるのが、「おかしいな。。私が話していると、いつの間にかあなたがいるのに、消えてなくなっちゃうんです。。」

 

クライアントの人格変化というか、自己変容と呼ばれるような飛躍的現象は、傍からみれば「2人の人が話し合っている場面」のように見えながら、クライアントの「体験のレベル」ではそこには「1人の人間しかいない」と思えるような状態でしか起きないんです。内なる多重な自己が納得して、クライアントが「自分自身になる」を手伝いをする。

 

もう少しだけ突っ込んで記載すると、

 

1.クライアントが体験しつつあることの鏡の提供
クライアントの内的世界についての私の理解が正しいかどうかを確かめるアクションを起こし(感情の反射というか、理解の確かめ、もしくは、受けとりのチェック)クライアントに対して、別の人間の目を通して見られた感情や個人的意味を確かめていくこと。

 

2.クライアントにもともと備わっている体験過程に触れる能力(体験はいかにして象徴化されうるのか)の有無と程度の診断と、程度に合わせたフォーカシング(自分のこころのメッセージを聴く方法)の活用。

 

3.自分を排して相手の「もう一人の自分」になること
これには、クライアントとの関係の中で変性意識状態にセラピストがあることが必須。そのうえで、内なる直感的な自己の近くにいることと、自らの未知なるものに触れていること

 

4.自分の存在とスピリチュアリティそのものが相手を癒す力を発揮する

これはトランスパーソナルなパラダイムのない人に説明するのは難しいかもしれません。たとえば、私だと、カウンセリングのセッション中に、クライアントの話に耳を傾けていると、「クライアントの話を聴き、受けとめ、応えているのは、この私ではないのではないか」という感覚になることがあります。

 

ブライアン・ソーンではありませんが、「関係そのものが癒す」というカール・ロジャーズのアプローチが、「スピリチュアルな同伴者としてのセラピスト」として感覚があるかどうかです。

ソーンはさらに言っています。本物のセラピストは、「人間の霊的進化を促進するという特権的地位」に自分があることを喜んで受け入れるべし。

 

つまり、カウンセラー自身がスピリチュアルな力を信じることが治療的関係の質に変化をもたらし、その関係がクライアントを癒すと考えている存在であるか否かです。

 

 

 

 

 

 

 

アイデアの出し方に個性を出せればよいわけで、アウトプットの表現部分に自分らしさを出す必要は必ずしもない

 

 広告、キャンペーン設計を久しぶりに行うこととなったので、整理も含め書きます。

大前提ですが、広告はクライアントの要望を実現することが使命。

 

アイデアの出し方に個性を出せればよいわけで、アウトプットの表現部分に自分らしさを出す必要は必ずしもないと考えています。あとはサイトに接する人がどういう感想を持つだろうかと、問いかけることです。

 

もっというと、広告のクリエイティブが、メディアのユーザーがコンテンツとして楽しめるかを考える。それを実現させるための有効な「変化球」は何か?多様化するターゲットの関心を捉え得る、最大のブランド体験装置こそ、タイアップキャンペーンの使命だと考えています。

 

『動きを創る動き』を、創ること。これを最重要視しています。

 

2番目に大事なことは、広告コミュニケーションをするプロダクト自体にパワーがある場合は、広告自体のパワーは同じだけ必要ではないということ。プロダクトと広告が足して100でちょうどいい。

 

そういったことを支えている広告というより、広告を通じての人間への向き合い方、構えが以下の10個です。

 

 

 

1.人間は、美しいものが好きだ

 

人間は美しいものに興味をもつ。あるいは美しくなければ興味を示さないのではないだろうか。

ビジュアルエフェクト、サウンドエフェクトの限界と威力を知れ。

この法則の事例を常に最新なもの10個は頭に持っておこう。

 

2.人間は、新しいものが好きだ

 

見慣れたものが気になってしょうがない。ということはあまりない。特別な興味をもったり、心が惹かれたりするのは、いつも未知のものだ。人間は、まだ自分が知らない新しいものがすきなのである。

キャンペーンを設計する際に、必ず斬新な切り口や新しい手法をアイデアを吹き込んだうえで活用する。

アイデアのないキャンペーンは、ユーザーを動かせず、悲惨なCPAを招き、クライアントに多大な損害与えるだけと思え。

 

 

3.人間は、人に伝えたがる

 

おもしろいと感じたことや、すごいと思ったことは、すぐに誰かに言いたくなる。

何かを共有したいという衝動なのか、他人を喜ばせたいという本能なのか、それはわからないが、「タブー、セックス、ジョーク・笑い、スキャンダル」は、とにかく人に伝えたがる。また、価値ある情報を持つことは、他人に対して優位に立てる行為で

あり、実行するのはまだその情報を知らない誰かに伝えることでしか、始まらない。

 

 

4.人間は、おだてられるのが好きだ

 

誰しも褒められれば悪い気分にならない。美容室やブティック、バーのようなパーソナライズされたサービスを提供する場所では、いかにもわざとらしく褒め言葉をかけられたりするが、リップサービスだとわかっていても心地がいい。やはり人間は、おだてられるとうれしくなるものだ。とくに女性たちは、微笑みを浮かべながら、歯の浮くような言葉をつぎからつぎへと口にされることに本当に弱い。

まずは、すべての女性ユーザーに、「Hi,Good Looking!」

 

 

5.人間は、面倒なことが嫌いだ

 

面倒という言葉の語源は「目どうな」だという。「どうな」は「無駄になること」という意味であるから、原義は、「見るだけ無駄なもの」だ。誰しも無駄なことはしたくないものだ。できれば、必要なことだけを必要なだけやりたい。そのせいか、【見るだけ無駄】な面倒なものや事柄は、避けられることが多い。

たとえば、複雑に見えるもの。難解なもの。手間がかかりそうなもの。

こうした【面倒なもの】は、吟味するまでもなく嫌われてしまう。

滞在時間が限られているWebサイトでは、一瞬でも【面倒そうだ】という思いがよぎると、そこから先へ進んでもらうことができなくなる。

だからこそ、キャンペーンは、できるだけシンプルでわかりやすくなくてはならない。

 

 

6.人間は飽きやすい

 

「人間は、新しいものが好きだ」とは、すでに述べた。

じつはこの仮説の裏側にも、無視できない人間の性質が潜んでいる新しいものに興味をもったら、旧いものに対してはどうなるか。さらに興味がわくということはまずありえない。つまり、飽きてしまうのである。「人間は、飽きやすい」のだ。

この性質は、Webキャンペーンにとって非常に深刻な課題になる。

テレビCMは、もし飽きられたとしても一方的に何度も見せることができるが、サイトの場合はそうはいかない。飽きたら、情報が今後新しくなったとしても、2度とアクセスはないと思え。

 

 

7.人間は、笑いたい

 

笑っていて嫌な気持ちになることはまずない。むしろ、気持ちがいい。幸せだ。平静を装っていても、きっと誰だって本当の腹の底から笑いたいと思っているのではないだろうか。人間はいつも笑いを求めている。

だから、思わず笑ってしまうようなユーモアがあるキャンペーンには、人は好意的だ。

 

8.人間は他人の意見が気になる

 

まわりの人がどういう意見をもっているのか。みんなはどう感じているのか。おそらく気にならない人はほとんどいないだろう。クチコミにしても「他人の意見」を通じて、情報が伝播したものだし、広く浸透したブログでは、誰もが「他人の意見」を参考にしあっている。気になるということは影響を受けている証拠であり、この心理をうまくキャンペーンの中にあてはめることができれば、俄然、説得力は増す。

 

 

9.人間は、隠されたものを見つけたがる

 

広告の常套手段のひとつに、隠すことで飢餓感を与える手法がある。キャンペーンで隠しリンクがあると、それがどこにあるのか、自分だけ知らないユーザーは探し当てるまでサイトを回流するか、答えを持っている人とアクセスしたくなる。

人間には、「隠されたものを見つけたがる」性質がある。

なかなか見つけられないものは見つけたくなる。あるいは、隠されている部分を知りたくなる。

 

10.そして人間は、心を動かされたい

 

広告関係者やインターネットの専門家と話すと、彼らのほとんどが技術や手法の話題であり、「人間」についての本質的な話になりにくい。しかし、業界のプロはプロである限り、視点も反応も一般的であるとはいえない。

仕掛ける側がプロ、仕掛けられる側が素人。そういうことよりも、相手は人間だ。あなたも人間だ。プロのあなたが、「一般ユーザーの心を掴みたい。」と思うとき、

一方で、あなたも1人の生活者であり、消費者である。

人の心の根本の部分には、向かいあったものや相手によって心を動かされたいという思いがある。

 

自分のキャンペーンがユーザーの心を動かすのか?

 

そんなのは、プロのあなたが決めることではなく、素人な生活者であるときにこそ直感的に決めていることであり、となりの素人が決めることだ。一般ユーザーへのテストマーケティングが施されていないキャンペーンは、これまたクライアントに、メディアユーザーに多大な損害を与える可能性がある。

 

心を動かすのは、ロジックではなく感情だ

 

『人は、ヒトとヒトとの関係が見えてくると感情移入がおこる』

 

Copy is open-minded copy.

We need to make open-minded copy.

which clearly communicate "human relationship".

創造性における、世の中の過ちおよび思い込みについて

創造性は誰にでも備わっているが、自分には備わっていないと信じている人が多いようです。

 

『刺激と反応との間にあるスペース(無意識)』を自在に使えることで、永続的な
クリエイティビティを獲得する。ということが技術的に可能ですが、これはここでは書けません。このエントリーは、そのヒントだけを共有します。

 

 さて、多くの人にとって、創造性とは、

磨き方を分かっていないために、磨いていないからこそ、「創造性」がないと

信じてしまっているのが真実だと考えています。

 

子どもを見ていればわかりますが、子供もは「創造性の塊」なのです。全ての人は子どもだったわけなので、「創造性がない」は、誤った自己認識といえるでしょう。

 

この誤った自己認識は、

 

創造性は、『何もないところから、何か新しい物を生み出すことである。』と信じられているからかもしれません。

 

確かにそうですが、創造性の高いアプトプットを出すプロフェッショナルたちが、本当に何もないところから一瞬で閃き、成果を出しているでしょうか。 

 

彼らの特徴は、いっぱい無駄なことをしないと、良いものってできないことを知っていますし、いきなり、『0⇒1』ではなく、新たに追加する大量のインプットから、

『100⇒1』を行い、この『1』が新しいもの。というプロセスを必ず進みます。

 

そして、プロフェッショナルは、「自分の内なるメッセージから生まれいずるものであるべき。」というべき論の制約の罠にはまっていません。このべき論の制約に負けてしまうと、私たちは私小説しか書けないことになってしまいます。

 

まずは、自分の能力評価でこけている人は、このリミティングビリーフを外すところからです。

 

 

ちなみに、もっと大事なことは、余白がないと何もできない。

たとえ、どれだけ才能があっても、

クリエイティブワークをするための、余白を確保できるか。

時間も空間も。そして、精神も(そもそも自分の内に潜む余白に気づき、それらを意識的に使えるようになるか。)

 

これらを生み出すための大事なポイントを整理しておきます。

 

1.時間管理について

時間に追われている限りは、クリエイティブワークは、ほとんどが不可能です。
解決策として、時間管理に走る人が多いですが、時間管理という概念を捨てることです。


時間を管理するのは、本当は不可能です。
時間自体をコントロールの対象にしている限り、時間管理は結果がでません。
直感的にはみんなが知っていることではないでしょうか。

時間管理をしたいのであれば、
プロジェクトや仕事・物事そのものと、自分のエネルギーを管理対象にすべきです。
もちろん、クリエイティブワークそのものを行うときも同じです。

 

 2.欠けている自分こそを愛する

自分の創り上げた世界に没頭し陶酔できる無垢な精神を磨くこと。

そのためには、闇に葬りさりたい幾多の黒い歴史も、作品を肥やすため
の餌とされるなら、全てに無駄などないと認識すること。
そして、それこそを愛せること。

創造するするということは自分に溺れること。

自己愛の強さは、創造性の源泉のひとつです。

 

3.強みの見極めと、無意識的行動の明示化

クリエイティビティは、情報のoutput過程における表出能力のことだから、
集中的に特定分野の表出能力を鍛えることができるのだろうけど、「向き / 不向き」って必ずあります。情報のinputもそうだけど、発達過程で鍛えられた記憶内容の受け皿によって、表出形態の発達には個人差が必ず出るのは誰もが認めることができるはず。

 

であるならば、不得意なものをムリヤリ詰め込もうとしても、はっきり言って、ムダ、というか、労力がかかるだけです。

 

おそらく、そういった場合、ほかの表出形態が発達しているはずだし、表出形態というか、outputという過程そのものが苦手だとしても、input過程には強みを発揮する人、想像力がすばらしい人など...個人によって素養が異なる。

自分のパーフェクトさが表れる、1度も狂いのない方角を見極めて、この過程を早くするためには、逆接的にではあるけど、できるだけ外部リソースへの参照過程を減らし、内部の暗黙知に頼ったほうが速い。 

かつ、感情と身体とのコラボをした方が抜群に質があがる。

 

いずれにしても、質の高いクリエイティブを生み出すには、
自分に合ったoutput形式を模索(あるいは開発)するか、input - 情報参照・探索を自覚的に統制すべき。自分の創造過程を意識的に明示化できないヒトは、クリエイティブを向上させることは難しい。

 

何かの仕事をガチで何年もやっている人のほとんどが、思っていることがあります。

 

「○○に関してだけは、なんかわかんないけど、他人より勝手に○○ができちゃうだよなぁ。」といった、他者から見たときの無意識的天才性を、きちんと意識的プロセスとして、ブレイクダウンして、可能な限りの最小構成要素に落とし込み、リバースエンジニアリングをしましょう。

 

「同じ系に属するものに対して強くなる」というのは、インプットを深めるというより、無意識的プロセスを意識に上げて、さらに無意識化することで強くなる。

 

 

4.空間への関わり方や態度について

MCや、ファシリテーターなどの創発の場を動かす者は、
『1人の冷静な視聴者であること。』を、何があっても続けること。

 

それを実現するには、あなた以外の全ての人にとって場の非日常性を維持しながらも、あなたは、場の非日常性に影響を受けずに、その場に己の日常性や精神状態を安定的に持ち込めるかにかかっている。

また、日常生活といったその日常については、どれだけ非日常的消費行動や体験を体感している毎日に生きているか。

 

もしくは、日常の生活導線において、昨日気づけなかったことに気づけるかが肝です。通勤経路ひとつとっても、毎日同じものを見ている場合ではありません。

現在の自分の枠組みでは、理解不可能な情報や人物に触れるコト。

 

嫌悪感があるようなものにこそ、触れていくことです。大好きな物事に触れるのは誰にでもできますし、過去の自分の参照機構に変化を起こすことができません。それでは、創造性は育まれない。 目先の当たり前のことを、世界的に観ても究極的なクオリティーで味わってみること。卵かけごはんひとつとっても、最高品質のコメ、卵、醤油、ごま油で食べてみることです。

 

5.能力や態度ではなく、クリエイティブに関する信念や気概について

作品は、誰もが、そこにいれなかったことを嫉妬する空間とすること
人が認識さえしていないかもしれない問題を解決すること
嫉妬されているうちはレベルが低い
簡単に説明できるようなもので、偉大な教えなどない
私の最高を目指す欲求が、依頼者の新たな欲求を生むという信念を持つこと。

 

6.無意識と意識のラポールを取る行為、瞑想

パフォーマンスは、行動で決まりますが、その行動は、精神状態で決まります。

ステイトマネジメントがあなたはできますか。

精神状態は、呼吸と姿勢、それらが動作と連動しているときにクオリティが決定します。 ヨガなのか禅なのか太極拳なのか何でもいいですが、「今、ここ」を体験でき、呼吸と姿勢と動作の連動を無意識的に行える訓練が積めるものを、コンディショニングワークをやる必要があります。

 

これらをやって、クリエイティブクラスへ。

 

 

科学の進歩には一定のレベルでの客観性などない。ということ。

 

私たちの知識は、生まれた場所と時代に左右されることが非常に多い。

他の人が私に教えてくれたこと、私が想像できるものごとそのものに左右される。

 

世界について私たちが知っていることには、

歴史的・文化的な視点からの見方が例外なく関わっているからだ。

自分自身と客観的な現実の関係がどんなものであっても、世界を認識する方法は

実に複雑で様々だ。

 

さらにこれは、まず人間として生まれて積んだ経験と、

人間固有の五感という生理機能に影響される。

 

地殻で起きる地震のリズムに意識的に注意を払う人はまずいないし、人体の生理機能で感知することが可能な波長以外の光は見えない。これら五感の基本的な組み合わせの中から私たちの認識は形作られるしかない。

 

その中にあって、西洋文化はずっと昔から全てに通用する誇大理論(グランドセオリー)を探し求めてきたように思える。

 

たった一つの世界観では、世界の仕組についての限定的な理論が抱える矛盾を取り込んで解決し、それをより進化して成熟した観点にまとめあげるのは無理である確信がすでに私にあります。

 

認識論とは、どのように物事を知るかを研究する学問ですが、

 

ぐずぐずためらわずに、必要に応じてアプローチを変え、顕微鏡から瞑想へと対象を変え、神がかり的儀式から、科学的根拠に基づく医療に移行できるような柔軟な認識論が必要だと思う。

経験について相反する証拠を並列し、この世をフライアイ(多視点)的に捉える見方。各科学と伝統的思想を標準化して収れんさせるのではなく、その2つのダイナミズムを創造性の原動力としたものにするべき。

 

だとすると、方法論は、メタポジション。これにつきる。

 

私たちが見ているものは、私たちの立ち位置による。

1つの知識については少なくとも2つの場所に立ち、

3つ目の位置が自然に浮かんでくるようにするのが賢明である。

 

また、世界の本質として

量子物理学が私たちの常識に投げかけた問いは、

科学の進歩には一定のレベルでの客観性などない。ということ。

 

シュレーディンガーが理論を思いついて10年後、モーリス・メルロー=ポンティが発した『相互主観性』という知覚の現象学で記していることが発端。

 

彼の中では、認識というものは、個人的認識の主観でも、通常の範囲を超えて客観的に対象を読み取ることでもなく、自ら絶えず影響をもたらす経験自体の融合した現象である。としている。

 

つまりは、

 

量子レベルでの超極小物質(粒子)においては、その粒子を観測する認識の過程で、対象が、認識する主体に干渉を受けるという性質から逃れられない。ということ。

電子も光も粒子であり、波でもある。2重スリット問題の解釈から人類はいまだに正解といえるものには到達していない。

 

であるならば、以下の仮説がなりたつ。

 

何かについてみる。

または考えるだけで私たちはそれを変える。

私たちの存在自体が現実の中に小さくともさざ波を立てる。

現実の不確実な性質よりも、さざ波の形を注視するほうが得策だ。

 

光が波なのか、それとも粒子なのか?が解決しないのと同様に、

この世を構成する基本的なビルディングブロック(この世を構成する最小物質の終着駅)についての問題も解決しない。ギリシャ語で「分けられない」を意味する「アトム」である原子は電子に最小性を譲り、その電子は、もっと分けられない粒子にゆずり、と、そのブロックは終わりがない。

 

であるならば、以下の仮説がなりたつ。

 

形をかえないものはない。

宇宙や物質を作るビルディングブロックは実は存在しない。

要素として分類される情報とエネルギーの流れがあるのみ。

人間はこの世に立っていることなどなく、停止しているようで波乗りをし続けていることしかできない。

 

そして、そのエネルギーの流れだが、始まりがあるはずであり、生命そのものでしかないはず。でなければ、生命があることはどうする。

 

エネルギーは生命である。

原子のスープとビッグバンから流れ出るカオスは、

どのような名をつけてどのような形を与えていても、なお私たちとともにある。

そんな創造性は、今もいつも手が届くところにあるはず。

 

さて、私たち人間ですが、

 

私たちは意図的に精神の状態や身体の健康状態、スピリチュアルな直感を変えることができる。

ということは、ボディ・マインド・スピリットは、私たちが世界を探検して変えていく経験をするための乗り物であるはず。

 

まずは、ボディ。西洋的にも東洋的にも、解剖学的人体をマッピングを真剣に試みようとおもう。この続きは別のエントリーで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

多くの人が抱える問題の根源についてのいくつかと、だからこそのコーチの信条について

 

問題1:外部のリソースから幸福を得ようとする

幸福に対して、「もし○○があったら、幸福になれる」と、幸福を条件づけ問題にしている人たちです。条件が満たされた状態のときのみ、幸福感を感じるひとです。この考え方であるかぎりは、どれだけ成功したと感じるような行動も努力にも終わりはなく、「欠けていることの私」の魅力に気づけず、「常に何かが欠けつづけている」毎日を過ごすことになります。

本当は、「幸せになる」ではなく、「幸せである」と気づくことです。

名誉や地位、稼ぐお金によって、人間を評価する切り口を変えることです。

 

問題2:自分が本当に必要なものを十分に持っていない

生活管理が「後手」にまわっている人は、常に何かに追われ、我慢している症状が現れます。この問題の原因は、自分が必要とするもの(情報、サポート、愛、お金、スペース、蓄え)を十分に持っていないことです。人生はあまりにも要求が多く、複雑を極めており、泳ぎ切るための余裕がない状態です。本当は不要なニーズを減らし、我慢すべきものを最小化することが必要です。

 

問題3:自分のことを太陽ではなく、惑星のように考えることが多い

 

自分の周りの世界に対して何かを提供することで、自己重要感は満たされます。

それには、まず、自分を他の誰か(または自分の文化の)の月や惑星とみるのではなく、自分を太陽ととらえ始めるのが一番早いです。魅力をあげるアクションや、反応をやめる。自分の中にある豊かなものに気づくなど、自分の内なる太陽に気づくセッションが大きなステップとなるはずです。

 

問題4:多くの古い概念や前提をもとに活動している

 

歴史認識や地理ひとつとっても、小学生で学習してから何十年もたっているが、情報の更新をしている個人は少ない。しかし、ミーム(アイデア、概念、原則)は急速に進化し続けている時代に生きています。今までは、過去の概念と新しい概念のパイプを、公共機関、会社、学校、政府機関、教会がその働きを行っていたのかもしれませんが、インターネットの恩寵により、協調的で流動的で拡張性があり、自己編成するネットワークからミームを受け取ることが瞬時にできます。

コーチは、クライアントのもつミームを更新するように手助けすることだけで、クライアントの多くの問題を、問題のコンテンツそのものの核心に触れることなく解決することができます。

 

問題5:刺激の足りない環境にある

 

ほとんどの人は、周囲の環境から十分な刺激(知的、創造的、情緒的、精神的な刺激)を受けていません。これは人間の認識は、過去の記憶を突合することでしか世界を無意識がみないからに他なりません。

そして、現在の状況がやりがいのある仕事ができていない、自分を進化させる仕事ではない(と言いながらゴールはクリアではない)、人間関係に活気がない、仕事が忙しい、トラブルに解決に忙しい、などの理由から、新しい刺激が目の前にあっても、受ける余裕がありません。

もちろん、幸福は外にある。と信じていることも関係しています。

解決は、目の前の環境に対して、自分で環境を設計する方法を手に入れることです。

 

 

コーチはこれらの問題に対して、効果的なワークパッケージを有することも必要ですが、クライアントに対して持つ信条は、さらにセッションの効果に影響を与えます。

クライアントが信じていないことを、コーチが信じていなくて、クライアントが信じることなんて起きえないです。

 

コーチがもつべき信条は、


私は信じています。
あなたに喜びをもたらす、今の年齢のあなたしか持つことのできない宝物をあなたがもっていることを。

 

私は信じています。
あなたが自分自身と私に対して正直になる覚悟があることを。

 

私は信じています。
あなたはどんな問題に直面しても解決する力があることを。

 

私は信じています。
あなたが自分でも思ってみなかったほどの成功を収める力を秘めていることを。

 

私は信じています。
あたなが他の人が学ぼうとしないことを学びとるつもりがあることを。

 

私は信じています。
あなたが自分の才能を花開かせるために努力できる人であることを。

 

私は信じています。
私はあなたがコーチを受けることで変わることを。

 

私はあなたを信じています。

子どもにも同じことがいえるかもしれません。

 

 

我々が知っていることを、どのように知っているかについての学問

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「NLPとはコミュニケーションツール、あるいはビジネスツールである。」

 

と、初心者への入り口としての説明ならば許容できていたが、相手の知識によって説明を変えるのではなく、指導者が本当にただのコミュニケーションツールとしてしか理解がなかったり、NLPの本質を理解できていないことを、当人が理解できていないということが、散見する。プロフェッショナルの端もない。

 

認識論の学習をした人材がそれだと愚かであって、エリクソンもベイツンのことも

分かっていないプラクショナーやマスターが多すぎたのは、危機的状況。

日本におけるコーチング資格の愚かさと同じ道を辿っているようで、安易に他人を変えようとする技術としてのモチベーションが前にでている。

 

また、その指導者たちは、日本で唯一の本物だと思える北岡さんが言うように、

 

常に、自分自身が今までもってきている世界の見方、アイデンティティをいつでもどこでも相対化して、「一時放棄」できる能力を身につけていない。

 

指導において、NLP を教えるときにデモンストレーションもできない。

優秀な指導者であれば、自分ができることとできないことの区別ができていて、かつ自分が達成できないことについては口を閉ざすようにしておくのが誠実というものであるはず。
 

NLP のような認識論は、エピステモロジーであって、


『我々が知っていることを、どのように知っているかについての学問』


であって、コミュニケーションが向上するのが本当の目的ではない。

ただただ、コミュニケーションに応用可能性が高いというだけ。

ざっと、これぐらいの領域には応用可能。

 

Key business areas where NLP is having a positive impact:

◦Leadership
◦Employee engagement
◦Recruitment
◦Communication
◦Marketing
◦Sales
◦Presentations
◦Meetings
◦Project Management
◦Productivity
◦Team working
◦Training
◦Stress relief

 

ただし、ミルトン H. エリクソンが定義できたことは、

 

「クライアントが精神的もしくは身体的セラピーに来る理由は一つしかなく、それは『該当の人の意識と無意識の間にラポールが取れていないからだ』ということです。」

 

であって、この意識と無意識のラポールをとり、このメタの認知を獲得することで、
NLPは、『目覚め、自己変革をもたらすもの』であり、『自らを自分自身のセラピストに変えるもの』である。」が本質。

 

  NLP は、人心操作のためにあるのではなく、自分の内面性の質を向上させるために存在している。それゆえ、自分自身と NLP 学習者の両方の中に、「覚醒」、「自己変容」、「自立」が生み出されるように常に努力すること。

これが指導者としてできないのであれば、迷惑極まりないロジックエラーを起こしている。これから学習する人、過去にプラクショナーを取った人たちは、指導者選びを慎重に行うべきで、少なくとも原書のいくつかを読むことをお勧めします。