Chaos Smart

「私は、私が無知であることを知っている」 複雑性、物事の根本に関わる深い叡智をえるブログ

権威という力を利用して目の前に座っているクライエントに何か伝達しようと思った時点で、カウンセラーは敗北している。

セラピーが成功するために、最低限できてなければいけない要件のいくつかに、転移・逆転移のハンドリグや「依存」の除去があります。

 

にもかかわらず、カウンセラー自身が意識的・無意識的に「依存」を生み出している例が散見する。

 

インテーク面接(初めてのセッション)で、治療課題とアプローチの確定、クライエントとの関係性の構築をやるのは当たり前なのだが、この関係性がどうもおかしいことが多い。

「依存」がある限りにおいて、関係原則の1つである、セラピーの目標と課題を協同しながら考えること「作業同盟」が守られない。また、状況に応じた処理や、課題の完遂、主体性と選択の促進も守られない。

 

カウンセラーは、このセッションを通して、これから複数回つづくセッションのセラピー効果の最大化を狙い(クライエントに必要な介入や、情報を伝達できるメリットの最大化)、おのずと権威づけをすることが習慣になっている。治療効果を出すためのピュアなプレッシャーからも、ビジネス的な損得を考えてもこの傾向が強くでる。

 

結局は、ほとんどのカウンセラーにとって、クライエントは問題を抱えた病人であり患者でしかなく、治す人と治される人というパラダイムが、患者をクライエントと呼称を変えたところで、パラダイムが変わっていない。

 

権威づけを生み出す力がコーチに働くようでは、コーチングセッションでもダメですが、カウンセリング空間では本当にダメでは済まない問題となる理由がある。

 

カウンセラーの態度・思惑以前に、

 

クライエントの側が、自分よりカウンセラーの方が一段高い存在へと無意識的に押し上げ存在していないはずの権威を生み出そうとする傾向がある。

おそらく、セラピーを受けなければいけないと判断している状況のクライエントにとって、この方が、有力感を覚えるカウンセラーに依存することができるため潜在的なニーズになっている可能性が大きい。

 

解決できない問題を抱えている人間が、カウンセラーを自分よりワンナップ(高い存在)へと押し上げることで、自らの判断を放棄し、考えることなく、カウンセラーの描く自己像を取り入れることができるためかもしれない。

 

このような主体性の放棄は、自分で考えた末に蟻地獄に陥ってしまったクライエントにとって、どこか酔いに似た快楽を与えてくれるのだろう。

自我の放棄は、依存⇒「帰依」につながるので、カリスマ化したカウンセラーの周辺にはそのようなクライエントが集まってくる。実際によく見る景色です。

 

セッションに来るクライエントの精神的状況からして、このような傾向が一般的なわけで、その状況・空間において、カウンセラーの力を利用すれば、いとも簡単にクライエントを依存させることはできる。

 

ワンナップされて楽になりたい人(カウンセラー)とワンナップして楽になりたい人(クライエント)という構図ができあがっている。

 

こちらを仰ぎ見ることによって生まれる関係性は宗教的な信仰にも通じるから、その気になればカリスマ教祖的存在になることも不可能ではない。

カウンセリングにおける宗教的要素そのものは重要なポイントであることは否定しないが、セラピストが実践するカウンセリングは宗教と一線をきさないといけない。

つまり、力の行使に関して最大限自覚的でなければならない。

 

権威という力を利用して目の前に座っているクライエントに何か伝達しようと思った時点で、カウンセラーは敗北している。

 

理由は簡単で、そこに生まれる支配と依存の関係は、カウンセリングの中心となる言葉の力を削ぐからだ。これでは、クライアントがもともと有する力によって、新たな自己発見の場そのものに、カウンセリング空間がなることは不可能に近い。

 

この敗北を回避する方法は、いくつかあるが、簡単なものを提示すると、

 

関係を揺らがすことで回避すればいい。

 

たとえば、観客からの評価を渇望しているカウンセラー役の演技者にでもなればいい。このことによるメタメッセージは、クライエントにとっては強烈な混乱が起きる。自分の悩みが適切に理解されているかどうか、治療効果が発生するかどうかにフォーカスしてセッションを終えるのが当たり前のクライエントにとって、カウンセラー自身が評価を気にしていることが全面に出てくることで、訳が分からない距離感と関係が生まれる。おのずと相対的に依存度がさがる結果となる。

 

このとても曖昧な距離感と空間が適切に管理できているかどうかが、プロフェッショナルのエッジであると考えています。

 

あわせて、依存の除去とは違ったところで、敗北しているセラピストへのヒント。

感情調整よりも大事なことは、調整不全に陥っている自己組織化されているメカニズムの回復に努めること。

 

内的な感情問題を解決するクライエントを手助けする際に、クライエントはセッション中にさまざまな問題状態を示します。

 

その体験プロセスを深めるために、一次感情の要求と表現、痛みを伴う未解決の感情の受容と変容、まだ気づかれていない感情や意味の明確化によって、体験プロセスが深められるアプローチがとれているかどうかを確認すること。

 

セラピーでは、体験をすぐに処理したり、変えたり、修復したりしようとするのではなく、体験を許容し、受け入れるプロセスを目指す。

 

具体的には、

 

感情の取り扱いについて、ただ解放反応のみにフォーカスすること、認知にフォーカスすることでは、足りないです。

 

適応感情と不適応感情の両方を体験することが治療的変容において鍵となる役割を果たすことを重視すべきであって、介入の焦点を認知や行動から感情へと移行させられるかどうか。この実践における核心は、概念知と体験知を区別することにあります。

 

体験の中にある感情を除去するためのカタルシスとして感情表出を繰り返すのではなく、感情を体験し、受け入れ、感情から「情報」が得られるように促すことです。

 

セラピストは、クライエントが何を体験しているのか、あるいは何を体験すべきかを示す専門家ではないです。そうではなく、クライエントがどのように体験を深めていくのかを示す専門家です。私が技法を用いるのは、クライエントにある特定の体験を強いるためではなく、体験が起こりうる状況をつくるためである。