「無知」を恥じるのではない。「無学」を恥じる。教養という「chaos」
教養とは何か。
「なにかの基礎資格としての知識」という意味を超えて、
「人格の基礎となるような知識構造」=「人格教養」というものがある。
教養とは外見的な美しさとは違い、リーダーシップとも違います。
権威・権限とももちろん異なります。
教養は、万人にわかるように光り輝いているものでもありません。
しかし、見える人には見えます。
見える人にははっきりと見えるが、見えない人には見えない。
(私は、見えないものを見ることが精神の成熟だと信じています。)
良い悪いではなく、まるで、わたしたちが美観、「何を美と感じるか」について個性をもっているのと同じく、鑑賞力による限界が芸術の限界であり、価値であるようなこと。
ただし、美観というのは、教養がふと湧き出る形で表面される「場」のひとつでもある。
私たちの美観を決定する審美的人格は、
過去の創作の中に自分に類似しているものを見つけようとする。
私たちの芸術鑑賞の感覚が修養によって広がることは事実であり、
そして、かつては自身が認められていなかった美の表現を楽しむことができるようになる。
この審美的人格は、人間の最良の性質のひとつである、考古学への尊敬とは分けて考えることです。古物に対して崇拝の念を抱く、歴史的な価値への共感を優先せずに、審美眼を優先することにある。
道家思想と禅道が考える完成された美観とは、配列の決定的な正しさにはなく、
茶室に見られるように反復を恐れる。虚の中にあるものこを本質である。
それらの哲学は、動学的な性質を持っていて、完成そのものよりも完成へいたる過程をより強調していること。 まさしく、「chaos smart」そのもの。
西洋では、美は完全なものと考えられているが、
「月も雲間のなきはいやにて候」、村田珠光が確立した
「不完全であるところに宿る美というものがある」=「imperfect beauty」
という侘びのコンセプト。
高価な唐物、東山御物の特徴である端正でシンメトリーな美が能阿弥の美観であったところに、
利休が、ややシンメトリーから外れた和物を評価する美観。
シンメトリーではないものを積極的に評価するようになり、それまでの価値観で
「疵」とみなしたものを、「見どころ」として積極的に評価するような美観。
真円ではなく、左右対称ではないものに美を見出す、非線形の美という鋭さ。
あとで見出すことになる美を隠し、あえて明かさないことをそれとなくほのめかす術。美の完成には、対象物と鑑賞者との相互作用が必要。
ゆえに、相手の想像力に依存する、任せる。というかは、結果的に、相手に知識や教養を強く要求するものでもある。つまり、美観は鑑賞者の教養の習熟度に強く依拠したもの。
それは静かに、しかし存分に自らを笑う高尚な奥義であり、それゆえユーモアそのも
の、つまり哲学の微笑である美観。
「人生で最高の喜びはひそかに善をなし、偶然それがわかるようにすること。」
茶道の真髄。
西洋と東洋、どちらがインテリジェンスが高いかどうかではなく、異なる美観。
西洋の知識人であっても、この美観を手にするには、東洋的教養がなければ、
見えないものは、どうやても見えない。
さて、教養について。
教養が香るとしか表現できない素晴らしい人が、ときおりいるものです。
ただし、この香る教養は、なければただちに困窮する性質のものではない。
にもかかわらず、人と人が深く惹かれあうとき、この種の教養が作用しています。
人が人によって癒されるときもそうです。
すぐれた師や上司の言葉に感動して、自分の生涯の使命を確信したりするときも、
心の奥底で教養と教養が惹かれあっています。
人間の深い信頼は、たがいの教養への信頼である。といっても過言ではない。
この高次元の信頼という文脈においては、
同調や傾聴、自己開示といった心理学的な心的融和状態は無力。
コーチングもNLPも、コンセプトそのものから吹っ飛ぶ。無力化する。
(価値を否定しているのではありません。私は心理学によって人生を生きている者です。)
この「人格的教養」を抽象的な感覚であり、非言語なもの。
知識的教養の修練をとおしてのみ習得されるが、知識(言語)そのものではない。
知識的な中身は、結果的には「ある」ということになるのですが、
知識的な中身を習得するための修練をした痕跡のようなものです。
共通であり不変である、人の中にあるコモンセンスとを分かつ、
その人独自の世界観、文化、歴史観、人生観など、そういうものの
周辺に、ユーモアのセンスや、美観、生活文化、所作などの要素。
そいうものを統合したものを教養と呼ぶことにすると、
そのような教養が人間の価値そのものであるということができる。
その人の置かれた文化によって、磨かれるものでしかないのかもしれません。
人間の重みそのものを決定しているかのような、人格教養の核は、
「○○について詳しくしっている」という専門的な知識のことでもありません。
専門的知識は、必要ではあるのですが、特定の専門的知識を深く身につけた人の
「人格の形」から、その専門的知識を取り除いたようなものです。
つまり、専門性を身につけるプロセスで起こる人格的変化とか、構えの形成の
ことをいうのです。
不思議なことで、かつ、若干の矛盾感覚を禁じ得ないのだが、このような人格教養は、なにか特定の専門性を深めることによってしか身につきません。
つまり、本質は今より深めることにある。
無知が教養の反意ではなく、無学であり、教養の立体化を放棄している生き様が恥なのです。
教養を積極的に磨く個というのは、
有限な生命しか与えられていない存在である人間が、有限のリソース、有限の能力で
生きざるを得ないことの閉塞感の中で、その閉塞感の反動ともいえる全体へ繋がること宇宙への理解といった、自分の有限のリソースというものをもっと大きな文脈のなかに位置づけて考えてみたいという気持ちが必然的に起こるからかもしれません。
そもそもが、chaosである宇宙と
結局のところ、私たちは世界の中で自分自身のイメージを見ているにすぎない。
個が勝手に創った世界。
それらを合わせる作業。
この歩みを止めないで、今を体感する。
言語で入り、非言語に至り、言語で構造化する。
ただし、簡単に説明できるはずもないもの。
簡単に説明できるようなもので、偉大な教えなどない。
古代の賢人は決して教えを体系的な形で語らなかったのはなぜだろうか。
彼らは逆接な形で語った。本質の意味する絶対は相対である。とばかりに、
必ず相対化の中に真実や本質を表してきた。
というのも、中途半端に理解されるのを恐れたからだろう。
彼らが秀逸なのは、自身がまるで愚か者のように語りはじめ、最後には聞く者を賢くした。
人間の質の評価をするひとつの指標、教養。
一瞬も人生を無駄にしている間はない。無学という間はない。
そもそも人は生きるだけで、その「間」ひとつで、実は何かを学習している。
ただし、「徳」のような高い教養を育むには、そこに強烈な意志と努力、忍耐は必要。
教養人はこの完成度が高いゆえ、人間に重みがあり、
心理学的臨床技術の完成度とは異なる出力で、他者に深い信頼を得るのではないか。
まずは、知識からです。