Chaos Smart

「私は、私が無知であることを知っている」 複雑性、物事の根本に関わる深い叡智をえるブログ

浅水無魚 徒労下釣(せんすいうおなくして いたずらにかちょうをろうす)

「魚がいない浅い流れに釣り糸を垂れても、魚は釣れない。徒労だ。」という意。

禅の世界。禅の言葉。

 

書物の中に、自分がかねて漠然と思っていたことが鮮やかな言葉で
言い表されていたとき、深い感動を覚える。


読書に限らず、芸術を鑑賞したり、何らかの出来事に心動かされたりするとき、
人はその対象の中に、自分の分身を探し当てているのだろう。
何かを教えてもらうときにも、自分の中に既にあるものと結びついたときだけ
確かな「知」となる。


自力で悩み抜いている人には、ごくさりげないアドバイスが劇的に効力を発揮する。
一方、悩みや苦しみから早く抜け出す方法を探しているだけの人には
どんなすばらしい教えも、笊(ざる)に水を通すように流れ去ってしまう。


自分にとって意味のある知は、どこか外の世界にあるのではなく
常に自分の内側から発する魚だ。
アドバイスや教えは、その魚を釣り上げるための釣り糸のようなものでしかない。
光を当てられたときに水底に魚を見出すためには、まず魚を養わなければならない

愛情や人間関係においても、このことは当てはまると思う。


愛されたい、必要とされたい、という願いは、
何もない流れの中にせわしなく釣り糸を動かすのに似ているのだろう。
自らの内なる魚を見失っているうちは、むなしく針がただようだけなのだろう。
 

(作:石井ゆかり)

この人の文章はいつも美しい。 

禅とは縁遠い門外漢の彼女が、こういったエッセイに挑戦できることや、言葉のつづりがこれほどに美しいことに驚愕する。

 

 

こういった挑戦には勇気を貰えます。

 

釈尊の正覚である、『奇なる哉、奇なる哉、一切衆生悉く如来の智慧徳相を具有す』。(不思議だ、ふしぎだ、この世に存在する全てのもの、仏でないものは何もない。という意。)

 

この文字言句では伝えきれない、直接体験を通して、心から心へと伝える以外に方法は無いはずの『正覚』に、私もそろそろ向き合ってもよいかなと思いました。

 

Om Mani Padme Hum