科学の進歩には一定のレベルでの客観性などない。ということ。
私たちの知識は、生まれた場所と時代に左右されることが非常に多い。
他の人が私に教えてくれたこと、私が想像できるものごとそのものに左右される。
世界について私たちが知っていることには、
歴史的・文化的な視点からの見方が例外なく関わっているからだ。
自分自身と客観的な現実の関係がどんなものであっても、世界を認識する方法は
実に複雑で様々だ。
さらにこれは、まず人間として生まれて積んだ経験と、
人間固有の五感という生理機能に影響される。
地殻で起きる地震のリズムに意識的に注意を払う人はまずいないし、人体の生理機能で感知することが可能な波長以外の光は見えない。これら五感の基本的な組み合わせの中から私たちの認識は形作られるしかない。
その中にあって、西洋文化はずっと昔から全てに通用する誇大理論(グランドセオリー)を探し求めてきたように思える。
たった一つの世界観では、世界の仕組についての限定的な理論が抱える矛盾を取り込んで解決し、それをより進化して成熟した観点にまとめあげるのは無理である確信がすでに私にあります。
認識論とは、どのように物事を知るかを研究する学問ですが、
ぐずぐずためらわずに、必要に応じてアプローチを変え、顕微鏡から瞑想へと対象を変え、神がかり的儀式から、科学的根拠に基づく医療に移行できるような柔軟な認識論が必要だと思う。
経験について相反する証拠を並列し、この世をフライアイ(多視点)的に捉える見方。各科学と伝統的思想を標準化して収れんさせるのではなく、その2つのダイナミズムを創造性の原動力としたものにするべき。
だとすると、方法論は、メタポジション。これにつきる。
私たちが見ているものは、私たちの立ち位置による。
1つの知識については少なくとも2つの場所に立ち、
3つ目の位置が自然に浮かんでくるようにするのが賢明である。
また、世界の本質として
量子物理学が私たちの常識に投げかけた問いは、
科学の進歩には一定のレベルでの客観性などない。ということ。
シュレーディンガーが理論を思いついて10年後、モーリス・メルロー=ポンティが発した『相互主観性』という知覚の現象学で記していることが発端。
彼の中では、認識というものは、個人的認識の主観でも、通常の範囲を超えて客観的に対象を読み取ることでもなく、自ら絶えず影響をもたらす経験自体の融合した現象である。としている。
つまりは、
量子レベルでの超極小物質(粒子)においては、その粒子を観測する認識の過程で、対象が、認識する主体に干渉を受けるという性質から逃れられない。ということ。
電子も光も粒子であり、波でもある。2重スリット問題の解釈から人類はいまだに正解といえるものには到達していない。
であるならば、以下の仮説がなりたつ。
何かについてみる。
または考えるだけで私たちはそれを変える。
私たちの存在自体が現実の中に小さくともさざ波を立てる。
現実の不確実な性質よりも、さざ波の形を注視するほうが得策だ。
光が波なのか、それとも粒子なのか?が解決しないのと同様に、
この世を構成する基本的なビルディングブロック(この世を構成する最小物質の終着駅)についての問題も解決しない。ギリシャ語で「分けられない」を意味する「アトム」である原子は電子に最小性を譲り、その電子は、もっと分けられない粒子にゆずり、と、そのブロックは終わりがない。
であるならば、以下の仮説がなりたつ。
形をかえないものはない。
宇宙や物質を作るビルディングブロックは実は存在しない。
要素として分類される情報とエネルギーの流れがあるのみ。
人間はこの世に立っていることなどなく、停止しているようで波乗りをし続けていることしかできない。
そして、そのエネルギーの流れだが、始まりがあるはずであり、生命そのものでしかないはず。でなければ、生命があることはどうする。
エネルギーは生命である。
原子のスープとビッグバンから流れ出るカオスは、
どのような名をつけてどのような形を与えていても、なお私たちとともにある。
そんな創造性は、今もいつも手が届くところにあるはず。
さて、私たち人間ですが、
私たちは意図的に精神の状態や身体の健康状態、スピリチュアルな直感を変えることができる。
ということは、ボディ・マインド・スピリットは、私たちが世界を探検して変えていく経験をするための乗り物であるはず。
まずは、ボディ。西洋的にも東洋的にも、解剖学的人体をマッピングを真剣に試みようとおもう。この続きは別のエントリーで。