Chaos Smart

「私は、私が無知であることを知っている」 複雑性、物事の根本に関わる深い叡智をえるブログ

視覚の隙を突いて、空間をねじ曲げる「世界の起源」という作品

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21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa

L'Origine du monde(世界の起源)

 

■作品解説

薄暗い展示室に入ると、足下から天井まで部屋いっぱいに傾斜したコンクリートの壁面があります。その壁面には、巨大な黒い楕円形の色面が広がっています。その色面は、奥に窪んでいるかのように見えたり、盛りあがって見えたり、あるいは平らなビロードにも見えたり、この色面を識別することは困難で、鑑賞者はいつまでも目の錯覚に悩まされ続けます。この色面は、実際は大きな穴で、内部は青い顔料で塗り込められており、巨大な空間そのものが作品となっています。《L'Origine du monde》というタイトルは、「私は天使を描かない、なぜならそれは見えないからだ。」という言葉で有名な19世紀のフランスの画家、ギュスターブ・クールベの同名の作品を参照しています。

 

この金沢21世紀美術館の展示室に、ぼっこりと開いた巨大な穴(ボイド)の作品「世界の起源」を見たことがあるだろうか。

 

鑑賞者の視覚や認識を揺り動かすことをねらったインスタレーション作品を制作することでは、光を扱う天才アーティスト、オラファー・エリアンソンだが、

そことアプローチが違えど、近い次元にいるインド生まれ、現代彫刻家アニッシュ・カプーア。

 

この『世界の起源』だが、

 

展示空間そのものが作品となり、せり上がった床に巨大なボイドが出現。ボイドは迫ってくるようにも、際限なく深く広がっているようにも見え、既存の空間概念が覆えさせられます。体感的な面白さと共に、ものと自分との関わりや存在を深く考えさせるという哲学的な領域のある作品。

 

ニヒリズムの具象化を試みたものだというものは一目瞭然だが、
「凝視するほどに鏡と化す」この作品は、実は平面でしかない。

この写真ですら信じられないだろうが、本物を見ればもっと平面であることが

信じられないだろう。

 

混乱以上の精神的負担が見るヒトには発生する。

 

視覚の隙を突いて、空間をねじ曲げる天才だと言える。

この作品は、カプーアの日本でいつでも観れる貴重な作品。

 

そして、それ以上に、カプーアは、「世界の起源」などというテーマを選ぶアーティストですから、私たちの想像のレベルを超えた瞑想生活を送っているはず。


日常の感覚経験のレベルを超えた、物理的量を私たちは時として自然の中で感じます。その時ある種のめまいとともに、敬虔な神秘的な感覚に浸ることがあるのは誰しもあることかもしれない。


それは大いなるものに深く抱かれ、すべてを失ってもいいと思えるような感覚に近い。カプーアの作品はそうした神の技と思われてきた自然の造形を、半端じゃないコストと先端科学技術によって実現することで、人の感覚の物理的限界を提示し、感覚が神秘ととらえるものも、そこには何らかの理由があるということを暴こうとしているように思える。


あるいは自分自身の思想的深みを神になぞらえて、人々に敬意と恐れを抱かせるゲームを楽しんでいるのかもしれません。


それはある種の背徳性と造形の偏執的なまでの精度追求の不思議なバランスによって新しい美学を提示しているともいえます。
ともかく、そこに畳み込まれた思想のレイヤーは単純でなく、言語化しきれない多くの要素をはらんでいることは確かです。

この作品も、非常に繊細な粒子を用いて緊張感のある造形を形作る。

chaos smartを表象している作品。

 

 

 

 

本当は誰も、ここがどこか知らない。そもそも人間は生まれていないのかもしれない。

100年後の人類へ

今の存在性が壊れることについて考えていること。

 

思考によって創造された偽りの自己感覚である『私(自我)』は、どのように証明しようとしても思考の産物でしかないので、偽りの自己が気づきによって消えてしまうと人はあらゆるものとひとつになってしまうはず。

"The self" , which is a wrong sense of ourselves are nothing but a creation of our thoughts however hard we try to prove it. We will become one with all the beings once a worng sense of the self disappears along with our awareness. 

 

そんななか、気づきはじめてきたことがある。それは、私たちの世界が、本当は未知なるところであるということ。また、言葉というものによって名づけている世界に対するその背景やリアリティ。また、死と呼んでいるもの、この世と呼んでいるもの。そのリアリティ。また、言葉というものによって名づけているものに対する実態。そして、その背景。言ってみれば、いったいここはどこなのかといった問題。

そのことを、深く深くほりさげていった。

Then, I began to be aware that our world is an unknown place in reality.

Also, the background or reality of the world for which we give names with words, or the realities of what we call a death or this world,

and the very thing which we give a name and its reality and background, in other words,a question where on the earth we are, which I started examining ad deepy as possible.

 

 

人類の長い歴史の中、思考に重きをおく文明が続く中で、私たちの人生や自然界への理解は、『生があり死がある』『始めがあり終わりがある』とする見方が当然のこととなっている。

During a long history of human beings, wiht civilizations which value the mind,our matter-of-course understanding toward our lives and the nature has been that there are a life and a death and that there are a beginning and an end.

 

それゆえ、そこから私たちは、その自分の終焉である「死」をとても怖れています。

Therefore, we are very afraid of "death" which ends the self.

 

しかし、本当は「生」も「死」もないような場所、どこに生まれているのか本当は誰も知らないという事実をひもとくとき、そしてそこから本当は今、私たちは未知の中にいるのだと人が気づくときに、私たちは真に変わり始めるのだと思っています。

However, we will be starting to change in a real sense when we reveal a ture reality that we are in a space of no life or no death and that nobody knows where we are born, and when we realize that we are in the unknown.

 

通常の感覚とは異なるのは分かっているが、

人は本当は生きてもいないし、死んでもいない。

ただある未知の次元から別の未知の次元に存在し、変化しているだけであるというリアリティへの気づきは大きなやすらぎを私たちにもたらします。

We are not born, nor are we dead in reality, only being and changing from one unknown dimension to another.Such awareness to a reality will bring us a deep peacefulness.

 

宇宙の果ての果て、とてつもなくはかり知れず、それをみつめつくすなか、人はきづきはじめるはず。

When we see infinitely expanding and immeasurable universe thoroughly,we will start to realize that.

 

今、本当は、私たちが、未知や神秘のなかにいるとしたら。

そして、科学的にとことんまで突き詰めた科学者たちは、そのことに気づくでしょう。

What if we are amongst the unknown and immeasurable at this very moment?

And true scientists who dare to investigate it scientifically will realize that we are in the unknown and immeasurable in a true reality reght now.

 

私たちの真のリアリティは、未知や神秘のなかに本当はいるということ。

「地球」「銀河」「宇宙」という言葉は 人類が名づけただけのものであり、本当は誰も、ここがどこか知らない。

Our true reality is that we are right in the middle of unknown.

Nobady knows where we really are as words such as "the earth", "the galaxy" and "the universe" are mere names given by us human beings.

 

 

そして、その未知なるところは思考の終焉とともに

すべてはつながっていて分かれてなどなく、

すべてがひとつであるということをあらわしはじめる。

As the mind ends, such an unknown space will reveal that everything is one and

united and that it is not divided.

 

その気づきのなか、

「死」ということに対する事実への真の科学的理解は、今まで私たち人類が信じてきたものとは、まったく違うものとなるはずです。

With this awarensee,

our ture and scientific understanding toward a reality of death will be completely

different from what we human beings have believed.

 

探究の正しい方向は、死とは何かではなく、本当に私たちは生きているのか、

生きているというのならどこに生きているのか、そしてそれはもしかしたら、

人類が名づけようと、意味づけようと、永遠に本当はどことも知れず、

いつかも知れないところなのではないのか。

それは人類が呼んできた、この世とかあの世とかいう差異を含めいったいどこなのか。

 

The right direction of our quest shall be not about what a death is, but about whether we are really alive, and if so, where we are born, and it may be of no place or no time, and where on the earth we are,wheter it is this world or that world just like we human beings named them.

 

そして、現実と呼んでいるものは、本当は神秘のなかなのではないのか。

Maybe what we call a reality is included in the unknown.

  

その気づきから、私たちの死に対する価値観が変容し、その変容した価値観をもった人々の集合意識から生まれるあたらしい世界は私たちが見たこともない、まったくあたらしい世界になることでしょう。

With such an awareness, our value toward death will be transformed, and the coming world created by a collective consciousness of the people with transformed values will be a completely new one unlike anything we have ever seen before.

 

たとえば、所有の価値観も自然に変化し、すべてが自然と公共性を備えるようになる世界とか。

Everything will be of public nature as our values of possessions naturally change.

 

心に巻き起こる「考え」をなくしていくこと

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 私の立ち位置は、 少林寺拳法の周辺領域として、沾粘勁(てんねんけい)や、養生功などの気功と臨済宗的禅をベースとしたアプローチだが、起源が5000年以上前に存在するインド哲学(ヴェーダ)にあるということでは、ヨーガも同じ。

 

ヨーガってなんなのかと考えると、
「ヨーガとは心に巻き起こる「考え」をなくしていくこと」かもしれません。

 

心に起こる「考えを」なくすにしても、

「心に鈴をつける」ということでも、

 

自分が今何をしているのかに意識を向けて、気づくメソッド。

自分自身に気づけばそれに対して対処の方法がみつかります。

 

今、目の前でご自分自身がやっていることを『意識化』させ、感じ、気づかせる。

 

しかし、形がない心に気づくのは難しいので、ヨーガのポーズや呼吸法を使って、カラダを通して感じることにより、気づくチカラを高めていくのがヨーガ。
もちろん、それ以上の価値や効果があります。

 

ヨーガは、サンスクリット語では他にモークシャ、サマーディとも言います。
宇宙意識や純粋意識又は神性と呼ばれる存在との自己との合一。

(これは、アーサナ(ポーズ)を中心にしたハタヨーガの領域ではなく、クンダリニーからラージャーヨーガの領域ですが。)
この体験は静かで穏やかで慈愛に満ちて愛そのもの。とありますが、言葉では表現できないくらいの至福の体験。

 

これには、『無為自然に生きる』ということが結論。

 

本当の自分とは何者で、その自分を知るとはどういうことなか。

 

名前、肩書、職業、家族構成、性格、身体、価値観等、たくさんの答えが出てきそうですが、どれも何かにつけられたレッテル(言葉)にすぎません。 それらの言葉で示される自分をすべて取り去った時、残るものとは何でしょうか。 それこそが、言葉では表せないけれど「本当の自分」

 

この状態をBeing(ただ在る状態=無為自然)といいます。

このBeingを取り戻しに行くプロセスを、修練の方向性を提示できるものが必要。

プロセスが「本当の自分=真我」を知ることにも繋がってくるのがインド哲学であり、禅であり、真言密教であり、気功技術。

手放す(つける発想から、とる発想へ)、繋がる、緩める

 

考え方としては、私たちは本当は完璧な存在である。ということ。

だからこそ、人生で失うもの、欠けているものは実はありません。


素粒子の次元では、この世のすべてのものは一つのエネルギー領域の中でつながっています。目に見えないですが、そのことは量子物理学がとっくに証明していることです。しかし、実際には多くの人々がこのことを知りません。実感できません。
自分ではない、自分という自我だと信じている自己と他を分けるものや、

感情(心)=自分という不必要なものをたくさん身に着けているということ。

 

そして、私と全体を分かつものがなくなり、私=全体であることがわかれば、自身の価値観による重要度によって、他者への愛情を変えたりせず、愛は対象を選ばない、愛そのものになり、その愛そのものが全てに繋がるということ

 

心身の解放(脱力、リラックス)をベースにした修練(トレーニング)で、心身一如(心と身体はつながっている)という観点から、身体を通して心身の在り方を見出していく。

何かを身につけるのではなく、自然との調和を妨げているものに気づき、それを取り去ることで、私たちはもともと自然の一部として存在し、自然と調和していたことを思い出させるという発想のもとに修練をする。

 

【身体】は、日常の生活習慣によってこわばった身体の緊張を取り去り、柳のようにしなやかで安定した脱力身体を目指す。

【心】は、過去の記憶から生じる思い考えを手放し、無意識の守りに気づき、解放します。今を感じることで、風のようにとらわれのない自由な心を取り戻します。

 

ヨーガにおいて、身体はすべてを知る小宇宙であり、

 

身体を観察し感じてみると、何らかのサインを送ってくれていることに気がつきます。何が身体にとって、最も合理的で機能的なのかは身体がすべて知っているのです。

「何を食べたいのか」「どう動きたいのか」「どのように力を使いたいのか」そのような身体の欲求を知ることは「今、何を選択したらいいのか」という人生のあらゆる問いに対しても、自然で無理のない答えがわかるきっかけにもなります。

 

哲学を理解し、呼吸やそのタイミング及び、イメージ、アーサナ(ポーズ)それらの完成度を強め、チャクラ開発をしていくことは、

気功技術のひとつの、内功と全く同じ。

 

内向は、内的知覚力を養成するための感覚修練です。

身体の感覚を研ぎ澄ませて、自己の内的世界へと知覚を拡げていこうとするものです。

特に以下の3つの感覚を養うことになります。

 

・重力感覚(grounding)
「重力感覚」は、自然の法則の中で最も強力で、地球上で生きているすべてのものに影響を与えている下向きのベクトル感覚です。あまりにも当たり前に働いているために知覚できていないのが現状です。この「重力」を知覚し調和することで、グラウンディング(地に足をつける感覚)を可能にし、不動心、不動体を養います。

 

・流体感覚(flowing)
人体は、約70%が水分です。水の詰まった皮袋の中に、骨が浮いている状態をイメージするとわかりやすいと思います。人体は、見た目には「固体」ですが、性質は「流体」なのです。流体を意識し動くことで、柔軟で、しなやかな動きが可能となり、ケガを防ぎ、心身のゆがみも整っていきます。

 

・中心感覚(centering)
地球上に重力が働いていることで、すべてのものに中心(重心)が存在しています。それは人体も同様です。立つ、歩く、座るなどの日常動作、姿勢においてどこが中心(重心)なのか知覚することでセンタリング(心身の中心に軸を持つこと)が可能となり、ぶれない安定した意識状態を保てるようになります。

 

ヨーガであれ、気功であれ、太極拳であれ、禅であれ、

究極的な目標は、「自然の法則との調和」にあります。

 

より自然で安定した身体(養体)と心(養心)をつくるプロセスを通して、人間が本来持っている様々な能力を引き出していきます。

 

特に私が大事にしているのは、とにかく、リラックス、「脱力」。

「抜く」こと。

 

姿勢の基本として「重心を定める修練」をして、

身体中心の確保、動作の基本として、軸で動く合理的身体運動、

伸筋運動と呼吸法、エネルギーの活用による意識の伝達を可能にすること

イメージ、内的知覚力、勁力(重力に適応した力)による気功の練功

 

心と身体の力み(緊張)を取り去る。

場所や時間を問わず、自分で行える心身調整法の妙味を体感し、呼吸をコントロールすることから生じる心身の変化を実感し、ココロとカラダの「解放」を目指すこと。

いま、に集中すること。

 

そうすれば、心に巻き起こる「考え」はなくしていけます。

 

このプロセスを経験している方は、

『手放す、緩める、繋がる。』を、

身体や感情だけでなく、弁証法的にあらゆる領域に当ててみるといいです。



たとえば、他者と対話をすること、すなわちコミュニケーションを図ろうとすることを一度手放してみる時間と捉えて場を生きる。



そのかわり、他者の言葉が自分の中にどう響くかに焦点を当て、それが結晶のようになると質の高いエネルギーと共に言葉として発する。
もちろん、流れの中では相手に配慮したり、相手にとって必要な情報も含ませて言葉を発する。

これができると、「伝わるべきこと」が、100%確実に「伝わる」。

それ以上に大事なコトは、

その言葉の芯にあるものが、他者の言葉の響きを受け取った自分が現在において、最も必要としているもの「そのもの」だということに気づきはじめる。

まずは、身体を緩めることから。

 

 

 

 

 

 

 


 

「無知」を恥じるのではない。「無学」を恥じる。教養という「chaos」

教養とは何か。

「なにかの基礎資格としての知識」という意味を超えて、

「人格の基礎となるような知識構造」=「人格教養」というものがある。


教養とは外見的な美しさとは違い、リーダーシップとも違います。
権威・権限とももちろん異なります。
教養は、万人にわかるように光り輝いているものでもありません。

 

しかし、見える人には見えます。
見える人にははっきりと見えるが、見えない人には見えない。

(私は、見えないものを見ることが精神の成熟だと信じています。)

 

良い悪いではなく、まるで、わたしたちが美観、「何を美と感じるか」について個性をもっているのと同じく、鑑賞力による限界が芸術の限界であり、価値であるようなこと。


ただし、美観というのは、教養がふと湧き出る形で表面される「場」のひとつでもある。

 

 

私たちの美観を決定する審美的人格は、

過去の創作の中に自分に類似しているものを見つけようとする。

私たちの芸術鑑賞の感覚が修養によって広がることは事実であり、
そして、かつては自身が認められていなかった美の表現を楽しむことができるようになる。

この審美的人格は、人間の最良の性質のひとつである、考古学への尊敬とは分けて考えることです。古物に対して崇拝の念を抱く、歴史的な価値への共感を優先せずに、審美眼を優先することにある。

 

道家思想と禅道が考える完成された美観とは、配列の決定的な正しさにはなく、
茶室に見られるように反復を恐れる。虚の中にあるものこを本質である。

それらの哲学は、動学的な性質を持っていて、完成そのものよりも完成へいたる過程をより強調していること。 まさしく、「chaos smart」そのもの。


西洋では、美は完全なものと考えられているが、
「月も雲間のなきはいやにて候」、村田珠光が確立した


「不完全であるところに宿る美というものがある」=「imperfect beauty」


という侘びのコンセプト。

高価な唐物、東山御物の特徴である端正でシンメトリーな美が能阿弥の美観であったところに、


利休が、ややシンメトリーから外れた和物を評価する美観。

 

シンメトリーではないものを積極的に評価するようになり、それまでの価値観で
「疵」とみなしたものを、「見どころ」として積極的に評価するような美観。
真円ではなく、左右対称ではないものに美を見出す、非線形の美という鋭さ。

あとで見出すことになる美を隠し、あえて明かさないことをそれとなくほのめかす術。美の完成には、対象物と鑑賞者との相互作用が必要。

ゆえに、相手の想像力に依存する、任せる。というかは、結果的に、相手に知識や教養を強く要求するものでもある。つまり、美観は鑑賞者の教養の習熟度に強く依拠したもの。


それは静かに、しかし存分に自らを笑う高尚な奥義であり、それゆえユーモアそのも
の、つまり哲学の微笑である美観。

「人生で最高の喜びはひそかに善をなし、偶然それがわかるようにすること。」
茶道の真髄。

 

西洋と東洋、どちらがインテリジェンスが高いかどうかではなく、異なる美観。
西洋の知識人であっても、この美観を手にするには、東洋的教養がなければ、
見えないものは、どうやても見えない。

 

さて、教養について。


教養が香るとしか表現できない素晴らしい人が、ときおりいるものです。
ただし、この香る教養は、なければただちに困窮する性質のものではない。

にもかかわらず、人と人が深く惹かれあうとき、この種の教養が作用しています。
人が人によって癒されるときもそうです。


すぐれた師や上司の言葉に感動して、自分の生涯の使命を確信したりするときも、
心の奥底で教養と教養が惹かれあっています。

 

人間の深い信頼は、たがいの教養への信頼である。といっても過言ではない。


この高次元の信頼という文脈においては、
同調や傾聴、自己開示といった心理学的な心的融和状態は無力。
コーチングもNLPも、コンセプトそのものから吹っ飛ぶ。無力化する。
(価値を否定しているのではありません。私は心理学によって人生を生きている者です。)

 

この「人格的教養」を抽象的な感覚であり、非言語なもの。
知識的教養の修練をとおしてのみ習得されるが、知識(言語)そのものではない。

 

知識的な中身は、結果的には「ある」ということになるのですが、
知識的な中身を習得するための修練をした痕跡のようなものです。

共通であり不変である、人の中にあるコモンセンスとを分かつ、
その人独自の世界観、文化、歴史観、人生観など、そういうものの
周辺に、ユーモアのセンスや、美観、生活文化、所作などの要素。

そいうものを統合したものを教養と呼ぶことにすると、
そのような教養が人間の価値そのものであるということができる。

その人の置かれた文化によって、磨かれるものでしかないのかもしれません。

 

人間の重みそのものを決定しているかのような、人格教養の核は、

「○○について詳しくしっている」という専門的な知識のことでもありません。
専門的知識は、必要ではあるのですが、特定の専門的知識を深く身につけた人の
「人格の形」から、その専門的知識を取り除いたようなものです。

 

つまり、専門性を身につけるプロセスで起こる人格的変化とか、構えの形成の
ことをいうのです。

 

不思議なことで、かつ、若干の矛盾感覚を禁じ得ないのだが、このような人格教養は、なにか特定の専門性を深めることによってしか身につきません。

 

つまり、本質は今より深めることにある。

 

無知が教養の反意ではなく、無学であり、教養の立体化を放棄している生き様が恥なのです。

 

教養を積極的に磨く個というのは、

有限な生命しか与えられていない存在である人間が、有限のリソース、有限の能力で
生きざるを得ないことの閉塞感の中で、その閉塞感の反動ともいえる全体へ繋がること宇宙への理解といった、自分の有限のリソースというものをもっと大きな文脈のなかに位置づけて考えてみたいという気持ちが必然的に起こるからかもしれません。

 

そもそもが、chaosである宇宙と
結局のところ、私たちは世界の中で自分自身のイメージを見ているにすぎない。
個が勝手に創った世界。

 

それらを合わせる作業。
この歩みを止めないで、今を体感する。
言語で入り、非言語に至り、言語で構造化する。
ただし、簡単に説明できるはずもないもの。


簡単に説明できるようなもので、偉大な教えなどない。

 

古代の賢人は決して教えを体系的な形で語らなかったのはなぜだろうか。

彼らは逆接な形で語った。本質の意味する絶対は相対である。とばかりに、
必ず相対化の中に真実や本質を表してきた。

というのも、中途半端に理解されるのを恐れたからだろう。

彼らが秀逸なのは、自身がまるで愚か者のように語りはじめ、最後には聞く者を賢くした。

 

人間の質の評価をするひとつの指標、教養。
一瞬も人生を無駄にしている間はない。無学という間はない。

そもそも人は生きるだけで、その「間」ひとつで、実は何かを学習している。
ただし、「徳」のような高い教養を育むには、そこに強烈な意志と努力、忍耐は必要。

 

教養人はこの完成度が高いゆえ、人間に重みがあり、
心理学的臨床技術の完成度とは異なる出力で、他者に深い信頼を得るのではないか。

 

まずは、知識からです。

 

浅水無魚 徒労下釣(せんすいうおなくして いたずらにかちょうをろうす)

「魚がいない浅い流れに釣り糸を垂れても、魚は釣れない。徒労だ。」という意。

禅の世界。禅の言葉。

 

書物の中に、自分がかねて漠然と思っていたことが鮮やかな言葉で
言い表されていたとき、深い感動を覚える。


読書に限らず、芸術を鑑賞したり、何らかの出来事に心動かされたりするとき、
人はその対象の中に、自分の分身を探し当てているのだろう。
何かを教えてもらうときにも、自分の中に既にあるものと結びついたときだけ
確かな「知」となる。


自力で悩み抜いている人には、ごくさりげないアドバイスが劇的に効力を発揮する。
一方、悩みや苦しみから早く抜け出す方法を探しているだけの人には
どんなすばらしい教えも、笊(ざる)に水を通すように流れ去ってしまう。


自分にとって意味のある知は、どこか外の世界にあるのではなく
常に自分の内側から発する魚だ。
アドバイスや教えは、その魚を釣り上げるための釣り糸のようなものでしかない。
光を当てられたときに水底に魚を見出すためには、まず魚を養わなければならない

愛情や人間関係においても、このことは当てはまると思う。


愛されたい、必要とされたい、という願いは、
何もない流れの中にせわしなく釣り糸を動かすのに似ているのだろう。
自らの内なる魚を見失っているうちは、むなしく針がただようだけなのだろう。
 

(作:石井ゆかり)

この人の文章はいつも美しい。 

禅とは縁遠い門外漢の彼女が、こういったエッセイに挑戦できることや、言葉のつづりがこれほどに美しいことに驚愕する。

 

 

こういった挑戦には勇気を貰えます。

 

釈尊の正覚である、『奇なる哉、奇なる哉、一切衆生悉く如来の智慧徳相を具有す』。(不思議だ、ふしぎだ、この世に存在する全てのもの、仏でないものは何もない。という意。)

 

この文字言句では伝えきれない、直接体験を通して、心から心へと伝える以外に方法は無いはずの『正覚』に、私もそろそろ向き合ってもよいかなと思いました。

 

Om Mani Padme Hum

 

人間の過去とは、常に現在形の幻想である。 そして、ポジティブになること。

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『人間の過去とは、常に現在形の幻想である。』

The past is always an illusion of the present form.  
 
 
これが、私の臨床の基本にあります。それが精神分析に忠実な姿勢かどうか、当然ながら異論もあるでしょう。でも、みんなも経験があると思う。今に不満がある人は、かならず過去に対しても不安を見出し、今が満ち足りている人は過ぎたことをくよくよ考えない。だから、成功した人や問題を抱えた人の話は、興味深くはありますが、どこか結末からストーリーをたどるように予定調和感があります。
 
My clinical psychology is based on this thought. There may be various objections whehter this thougt is faithful to psychoanalsis. But you must have this kind of experience. Pepole who a...re dissatisfied with their present states always try to find dissatisfaction in thier past, and people who are statisfied at present do not brood over what happened in the past. This is why the stories of people who have succeeded and who have problems are interesting, but the outlines of these stories can easily be predicted when tracing thier lives starting from the end.
 
 
さて、プラス思考になるために、
How to Become a Positive thinker. 
 
 
幸福の重要な要素であるプラス思考は自分にとって否定的なものに対して無感覚になることでは無く、自身の中で物事を健全な見方で捉える思考法のことであり、認識と行動の修正を行うことで、誰でもプラス思考になることが可能です。

Positive thinking is a significant element of happiness. In order to become a positive thinker, determination and consistency are important. The first thing to know about positive thinking is that everyone can do it. With certain cognitive and behavioral modifications, we can all become positive thinkers.
 
こういうことが、いいことだと考えます。
To become a positive thinker, these may help you:
 
自分を見る際の視点を変える
否定的な出来事に捕らわれる代わりに肯定的な出来事に注目してください。例えば、望むように仕事が進まない場合はそれにイライラするのではなく、あなたには仕事があり状況を良くするための時間を設けることができるという事実に注目してみてください。
 
自己評価を変える
自分への評価を正し、自身の行動を完璧なものとして捉えるのではなく適度なものにに変えてください。自分の弱点を他者の強みと比較し、次に自分の強みと他者の弱みを比較、そしてあなた自身と他者とを比べます。多くの人は自分の弱点よりも強みに注目しますが、強みと同時に自分の弱点にも気づいている人は、より健全な自己評価ができているでしょう。
 
自分を励ます
もしあなたが自分にほうびよりも罰を与えがちな場合は、その習慣を正すべきです。あなた自身がこれまでどれくらい頑張ってきたのかをもっと考え、自分自身を認め、そしてこれから自分がどうなりたいのかを考えましょう。
 
根拠を備えた結論を引き出す
実際の出来事を見て物事を判断してください。例えば、「今向かいあっている相手が」自分と仲良くない人に似ているからといって、その人が自分を騙そうとしていると勝手に決めつけてはいけません。あなたの仮定が正しいという証拠があるかどうかを確かめるために、他の要素をよく見てみましょう。
 
どちらかという考え方をしない
完全主義に基づいた二分法は望ましくない結果を生みます。「これはこの方法で行われるべきだ」と言う代わりに、「私はこの方法を支持します、しかしこの方法以外にも行うべき方法があると思います」と言う方が望ましいでしょう。
 
 

Change your self-monitoring: Instead of selectively attending to negative events, focus on the positive ones. Then pay attention to the delayed consequences of your behavior rather than the immediate ones. For example, if a job is not going like you want, focus on the fact that you have a job and how you can take your time to make the situation better.

 

Change your self-evaluation:  Challenge any inaccurate internal attributions and see if you compare your behavior to standards that are excessively rigid and perfectionistic. If so, change these and be reasonable with your comparisons. For example, if you constantly compare your weaknesses with other peoples' strengths, then switch this and compare yourself with those who are doing poorer than you as well.  Overall, people who focus more on their strengths than their weaknesses but at the same time are aware of their weaknesses have a healthier self-evaluation result.  

 

Change your self-reinforcement:  If you have low rates of self-reward and high rates of self-punishment when it comes to certain aspects of your life, then you want to modify this. For example, think more of how far you've come, how hard you've worked, acknowledge yourself for it and then see how much further you want to go.

 

Draw conclusions with evidence: Look at the evidence, look at the events, look at patterns and don't base your conclusions on assumptions.  For example, don't just assume someone will cheat you because they look like or in some ways act like an ex you didn't get along with.  Look at other elements to see if there is any evidence for your assumption.

 

Don't do "either/or" thinking: Black and white thinking based on perfectionistic thought is counterproductive.  Every time a thought pops up and has words like "should" or "must," challenge it.  For example, instead of saying "this should be done this way," say something like, "I prefer it this way but I am sure there are other ways to do and am willing to be open." 

 

プラス思考な人はより優れた問題解決者であり、他の人とよりよい交流を持て、また自分の生活に満足することができるのです。
 
At the end, positive thinkers are better problem solvers and have better interactions.  In addition to that, people who are positive thinkers are happier and more satisfied with their life.
 
 
Make yourself Proud.Be your own Inspiration, your own Hero.
Do whatever it takes.Save Yourself.You can do this! Why not?
 

御託を並べる前に謡え、動け、そして聞け。という世界。

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 古来より日本に残る、能、狂言、文楽、歌舞伎。

これら日本が誇る伝統芸能は、海外でも公演が行われ、世界中の人々が魅了される価値あるもの。過去の時代は、その時代の若者が熱狂したもの。

 

それらを観に行ったことがあるだろうか。きちんと、何であるか説明できるだろうか。観に行き、誰かに語らなければ、文化は継承されないし、存続させていくことができない。観に行けば、魅力にとりつかれてしまうかもしれない。

 

文化の存続という大きなことを誰かに勝手に求めたりしたいのではなく、

以前に書いた通り、

「体感」の大切さ。およびに、身体を清めること。

 

このエントリーにあることを、実行するひとつの解答です。

 

「感性と体感」へと自分を持っていく、キードライバーになるかもしれないことなので、ちゃんと書いてみよう。

 

 

茶にしても、禅、庭園、寺社仏閣、伝統芸能にいたるまで、自然への繊細な感受性を源泉とする美的情緒が、日本人の核となって、世界に例を見ない芸術を形作っている。「悠久の自然と儚い人生」という対比の中に美を感じる、という類まれない能力が日本人にはあります。 無常観というのはもともと、インドのお釈迦様が言ったこと。お釈迦様の言う無常は哲学です。何もかも永遠に同じ形を保つことがはできないという哲学です。 北インドから中国を通って日本に来た無常観が変質を遂げました。日本人の無常観は、「すべては変わりゆく」というドライな達観から派生して、弱者へのいたわりとか敗者への涙という情緒を生み出した。ドライな達観が、儚く悲しい宿命を共有する人間同士の連帯、そして不運な者への共感へと変質していったのだろう。

 

この無常観はさらに抽象化されて、「もののあわれ」という情緒になりました。日本の中世文学の多くが、これに貫かれています。すなわち人間の儚さや、悠久の自然の中でうつろいゆくものに美を発見してしまう感性です。

 「もののあわれ」のほかにも、日本人は自然に対する畏怖心とか、跪く心を元来持っている。

 

さて、前置きはいいとして、

 

日本の伝統芸能についてです。特に『能』について、紹介したい。

 

場を三味線、台詞を太夫、人間以上に人の感情を具現化する人形の融合が、『文楽』

 

武士の嗜みであった「能・狂言」の支配階級の独占から、庶民のための独自の芸能が開花する。真剣な【日本文化ごっこ】。現在となっては、日本文化の魅力が詰まった伝統文化の華が、『歌舞伎』

 

中国から奈良時代に伝わった『散楽』

 

これが、一方が歌と舞の芸術・能へ。

一方が風刺と笑いの芸・狂言へ。

 

愛すべき人間が主役、滑稽なことを笑いで肯定する人間賛歌の芸能が、『狂言』

 

世阿弥が論じた「序破急」、速さの緩急や精神的な高揚、一曲の構成上の盛り上がり、五番立の構成。長時間にも及ぶ、重々しい緊張感に満ちた質感で、観るものを幽玄の世界へ誘う。三間四方に広がる「謡(うたい)」と、「仕舞(しまい)」で、スピリチュアルを表現する奥深き美意識の世界が、『能』

 

 

『能』を難解として敬遠する人たちが多くいる。

が、実は「難解」とは縁遠いもの。もちろん、だからといって「単純」でもない。

 

心を遊び、感じるものであるため、難しい。はない。

表現している方向感を理解して、あとは思考をやめて観るだけです。

 

あの世とこの世をつなぐ橋掛り、神聖をかんじさせる鏡板の老松。緞帳もなく、舞台と客席を仕切るものも殆どなく、音響装置や舞台装置もなく、照明の変化もない。

 

小宇宙を思わせる舞台空間で、観客と舞台が一体となる世界を体験する、変性意識状態に全てを引きずり込む芸術です。

 

能は、演者の動き、謡のことばと節。音のリズムによって、その想像の世界を彩色する。その世界は、五感でとらえ、見た人間が想像力でつくりだすもの。

 

観た人間の数だけ能がある正解などないし、誰もそれを求めていない。

能舞台にはセットも背景もない。限られた空間、約束事の中で能楽師がやっていることは、観客の想像力を引き出すことに終始しているともいえる。

 

ただし、能の醍醐味のひとつはその様式美。「情緒」と「形」を重んじる日本の感性です。役者や囃子(はやし)など出演者たちの役割や舞台上の場所についても定められた様式が守られている。鑑賞する前に、舞台上の決まり事を知っておくことをお勧めします。

 

御託を並べる前に謡え、動け、そして聞け。という世界。

能は感じるままに観るもの。

 

野外音楽フェスも、フルオーケストラも凄いんだが、

美意識と幽玄の世界観、これらを観客と舞台が一体となる空間を体験しなくて

あなたは本当にいいですか。