「体感」の大切さ。およびに、身体を清めること。
今の時代、われわれは頭でっかちになっています。
感じることをおろそかにしています。
その結果、環境を汚染し、健全な政治、経済、教育も行われなくなりました。
ものや人には、それぞれの波動があります。
その波動を感じることで、そのものの性質がわかります。
また、その波動の影響を受けて自分自身の体調や精神状態が変化します。
それらを感じる「体感」がなければ、わからないまま影響を受けてしまっていることになります。
『影響を受けていることに気づいている時には、実は、影響をうけていないです。』
わたしたちが、地盤の素材の良し悪しに影響をうけること、
電磁波の影響をうけること、こういったことを、忘れている。
もしくは、それ以外の目の前の何かに集中しすぎているがゆえに、影響を受けている事実に臨場感がなく、大きく影響を受けてしまっている。
他にも、形態から発するエネルギーの影響についても、
他者から発する感情エネルギーや、意識(想念)のエネルギーが場のエネルギーの良し悪しに影響を与えていること知識としても、経験としても知ってはいるだろうけど、「体感」を忘れて、気づいていないから、影響に気づけない。
「体感」は「今ここに生きる」にも通じています。
「体感」は「今ここ」でしか感じることができません。
「今ここ」に意識の集中体がいないとき、「体感」がおろそかになっています。
「体感」しながら生きているとき「今ここ」に生きることになります。
「体感」することにより、気持ちの悪いものからは自然に遠ざかり、気持ちのよいものを選ぶようになります。自ずと環境も良くなります。環境は清々しい状態に変わってゆきます。
この「体感」が鈍くなっている人は、
「個」の自分だけを感じています。視界に入った相手やものを感じたり見たりすることは、一部の情報だけを処理しているに過ぎないので、正しい体感とは言えません。言い換えれば、目先の楽を選んで、自分にとってのいい情報だけを見て生きているとも言えます。(それは感覚ではなく、感情)
物質に依存して、身体で感じることの大切さを蔑ろにしてきたはずです。
大切なことは、「体感」と「思考」をバランスよく育むこと。
多くの人は、「真実を知りたい」と思っているつもりでも、実は自分にとっての得を知りたいと思っているはずです。常に自分が中心にあるので、「いまの自分」にできることや、負担にならない情報を受け入れることを、自分の体感だと思ってしまうのでしょう。
人は動物であり、肉体があるので、その「身体」で自身のいる空間を感じるものなのですが、大切なものは、自分にとっての良い情報などという、欲望からくる「感情」ではなく、「感覚」です。身体のすべてを駆使して感じるしかありません。
人は心身の維持のために、自身の容量を超える情報を取り入れることができない生き物です。「苦しい場合、それ以上の意識を広げないでおこう」というのがほとんどです。
そのため、正しく認識するために必要なことは、身体を清めることです。
清めれば清めるほど扱える情報量も増加し、情報を精査する速度もあがり、認識する力も増加します。
身体性をあげて、思い込みから脱却する。
世の中を良くするためには「体感」からはじめなければいけないのかもしれません。
私の身体知になっている「聖句」が以下です。
己こそ、己に依るべ
己におきて、誰に依るべぞ
良く整えし己こそ、真、得難き依るべなり
自ら悪をなさば、自らが穢れ
自ら悪をなさざれば、自らが清し
清きも清かざるも、自らのことなり、
他の者によって、清むることをえず
合掌