おもてなしは、たんなる臨機応変なサービスではない。そして、定型化の先にある余裕が必要なもの。
仕事に関連して、「おもてなし」について話す機会がわりと多く
バーテンダーをやっていた時から、大事にしていたことなのだが、
何かの「おもてなし」の動作を私がするとき、お客様に気づいてもらえるかどうかを全く考慮しない。
むしろ、顧客の無意識に同調し、無意識的な行動に対して先回りした動きをするために、「おもてなし」そのものが知覚できないレベルを目指していた。(これは、現在のコンサルタントとしても、人材開発でもカウンセリングでも同じ。)
「おもてなし」は、「サービス」とは違う。
通常は、企業が提供した製品やサービスの便益を、顧客側が認識して初めて価値が生まれます。この価値の対価は支払われるべき。これで正解。
そのためには、期待どおりでも、期待を超えていても、「顧客が知覚できる行為」を行う必要があります。
でも、「おもてなし」は、違う。
いちいち「私はあなたに心遣いしていますよ」とアピールすることは野暮だと考えている。むしろ「伝わらないくらい、さりげない方が美しい」と信じている。
こちらの気遣いを察知したお客様が、心理的に負担を感じるようなことは避けます。
茶道の真髄にゆかりがあって、
「人生で最高の喜びはひそかに善をなし、偶然それがわかるようにすること。」
バーテンダーで言うと、
常連のお客様が、「いつものマティーニを。」と言われても、その方のアルコールの摂取量と食べてこられた舌の状態を判断してから、少しだけ作り方、比重を調整している。
そのかいあって、「あなたが創るいつもどおりのマティーニを、ありがとう。」と反応をもらいます。
そのお客様の味を知覚する機能が低下していても、イメージにある「いつもどおり」を実現するためには、こちらの何かを変える。だからといって、それを説明しません。そして、いつもと違うと怒られるようなミスもしない。
もう少し簡単なことだと、
お客さまの前にドリンクを置く時、1杯目は右斜め前の定位置に置くものの、2杯目以降は置き場所をさりげなく変えている場合もある。
お客様は無意識のうちに自分が飲み易い場所にグラスを置くので、その位置を覚えておいて、2杯目以降はその場所にそっと提供する。
多くのお客様は気づかないでしょうが、これもまた、わざわざお客様に知らせる行動はとりません。居心地よい時間を過ごした結果、お客様が最終的に「今日は良い時間を過ごせた。またこの店に来よう」と思ってもらえば、もてなす側の目的も達せられたとはず。
つまり、
「相手が気づく」ことを前提にして提供するのが通常の商品・サービスだとすると、おもてなしは「相手に気づかれなくても構わない」、あるいは「気づかれないほど、さりげない方が良い」「それでも、わかる人にはちゃんと伝わるだろう」といった考えで供されることが多いのです。
そのため、店側はこういう行為を最終的には知覚できるお客様かどうかを、こちらも観察しています。
「客ぶり」がいいかどうかを、お客様に問うてます。
顧客がおもてなしの価値を認識するかどうかは、相性や顧客の察する能力に依存する。文脈を共有できていない人が楽しむにはハードルが高いハイコンテクストなもの。
このように、お客様を限定して洗練された場の空気を楽しむようなおもてなしの世界は、日本独自の文化だと思います。
本来は、特別な顧客に向けて、ニーズの先回りをして行う「おもてなし」を、
不特定多数や、全ての顧客に平等に提供するとなると、
そういったビジネスの中に、おもてなしを取り入れて手広く展開していく場合は、
おもてなしを顧客が楽しむハードルを多少は下げてくこと、
顧客の認知作用を先回りした形での定式化・標準化をする必要がある。
ちなみに、標準化は実は「おもてなし」と相性が悪くない。
理由は非常に簡単で、
定型部分を標準化するから非定型部分に注意を払う余裕が生まれる。
形式美にこだわる日本文化の本質の一端は、ここにあると思う。
奥が深い「おもてなし」は、一部の天才や長年の経験を積まなければいけないと誤解されているきらいがあり、「標準化に頼ると、サービスの進化が止まってしまうのではないか」という拒絶反応がよくある。
これは大きな誤解で、「規格化」と「標準化」は別物です。
「規格化」には一度型を決めたら、それに従わざるを得ないニュアンスがある。
一方の「標準化」の本質は、型にはめることではなく、再現性を担保する点にあります。あくまで再現可能性が大事なのであって、既存の型を逸脱していてもそれが従来の標準よりも優れており、かつ他の従業員や店でも再現可能なのであれば、新たな標準として取り込んでいけばよいだけ。
問題は「標準化」そのものではなく「その運用」の側にある。あしからず。