Chaos Smart

「私は、私が無知であることを知っている」 複雑性、物事の根本に関わる深い叡智をえるブログ

心理療法のクライエントが選びとるのは「生き方」であって、心理療法そのものではない。

 

「NLPが治してくれるのではありません。あなたが自分で治すのです。NLPはただ、どうすれば自分で治せるのかを完璧に教えてくれるだけです。」

 

これに関しては、ビジネスコンサルタントとマインドセットがよく似ていると考えています。 

 

コンサルタントが、魔法使いのようにクライアントの問題を解決する方法はない。が、提案を実行してもらえれば、必ず変化及び成果を体験できると信じている。

だからこそ、クライアントが当事者意識をもった実行を創出するかにすべてがかかっている。

 

コンサルタントがクライアントの進めるプロセスを手伝うという関係ではなく、結果を出すために、クライアントがコンサルタントのアドバイスを積極的に試していく関係が成立するかどうか。ここを重要視しています。

 

さて、セラピーとしてのNLPですが、

 

NLPは、治療目的で結ぶ関係の重要性を理解していないように一見思えるが、NLPの心理療法を根底から支えているのは、まさにこの関係に新しく画期的な枠組みを与えたものだと考えてもいいのかもしれない。

 

NLPは、治療法というより、教育法であり助言法であると思います。

保護することよりも力を与えることに、単に維持することよりも変化をすることに力を注いでいる。

 

さて、たいていの心理療法士は、それぞれの独自の名称をつけて、NLPの体系にある、アンカーも使えば、戦略のインストール、サブモダリティの変換、トランスワーク、パートの統合、タイムラインの変更、リフレーミング、課題を与える、対人関係に取り組む方法、生理状態に働きかける方法も使っている。

 

その中で、優れたセラピストは、

消極的なクライアントに対して、やみくもにNLPという爆発物を投げつけるような真似はしない。クライアント自身の能力(分離・統合、チャンク・アップ/ダウン)や、時間的な志向(インタイム、スルータイム)、焦点を絞っている神経学的レベルにマッチし、それを拡大できるような学習法を、クライアントとともに設計していくことが求められている。

 

コンサルタントのいくつかの原則を示すと、

 

・コンサルタントには、アドバイスを与えようとする分野について相応の専門知識があり、クライアントと協力するプロセスについても同様に専門知識がある。

 

・コンサルタントは、公式・非公式にかかわらず、「雇用され」なければならない。つまり、要請に対して、その専門知識を提供するのである。この関係を満たせていない状態での他者を助けたい気持ちや、優しさだけで、他者の生活に干渉するのを楽しみにしている人ではない。

 

・コンサルタントは、クライアントの目標を引き出し、明らかにし、それを達成するために働くのであって、自らの目標のためにそうするのではない。自分の有用性を売り込もうと粘ったりは本質的にはしない。

 

・クライアントは自分自身のすべきことに責任をもたなければいけない。コンサルタントの提案をすべて実行する。あるいは、しない。という責任がある。この責任を果たさないのは、コンサルタントの働きにほとんど重要性を認めていないということ。

コンサルタントは、コンサルティングのプロセスに責任をもつ。クライアントは自分の本分に責任をもつ。その上にしか本物の成果は存在しない。

 

・コンサルタントはプロとして、機密を保持し、クライアントとの重複関係を避けるなど、特定の明快なガイドラインに沿って行動する。

 

こうしたコンサルタントの役割をそのまま採用すれば、まさに優れたカウンセリングの治療プロセスの一部となります。

 

クライアントは無力な犠牲者などではなく、クライアントの生き方の原因はクライアント自身にあるとして、治療にあたるべき。NLPの姿勢もコンサルティングの姿勢も同じでいい。

 

最後に、

ヴァージニア・サティアがこう語っている。

 

『セラピストという仕事は、なかなか恐ろしい仕事だ。それにふさわしくあるために、常に自分の人間性を磨き、完成を目指し続けなければならない。わたしたちが取り組むのは人間の人生である。思うに、セラピストになるということは、配管工になるのとはわけが違う。配管工なら、普通、技術があればなんとかなる。セラピストにはそれ以上のものが必要だ。パイプを修理するのに、そのパイプを愛する必要はない。・・・・私は指導に当たるとき、セラピストの個人的特性に徹底して注目する。人間が人間に取り組むのだ。まず自分自身を愛し理解できなくてはならない。そして、相手をよく観察し、よく耳を澄まし、充分に触れて、理解できなくてはならない。さらには、よく観察してもらい、よく聴いてもらい、充分に触れてもらい、理解してもらえるような状態を創りだせなくてはならない』[Satir and Baldwin, 1983,pp227]