広げること、普及するようなこと、ただ「広い」ということ
広げること、普及するようなこと、ただ「広い」ということ
を、広がるはずの内容を考える以上に、ただ「広げる」ということに
ついて、いつも考えています。
対象を選び、内容の魅力度があれど、
伝わらないものは伝わらない。
伝わらない想いなど、想いなんかではないんだろう。
自身が何かを「語る」ときに、失敗することは幾度となくあるのだが、
教育の現場であれ、コンサルタントして語るべき何かがその場にあった
ときに、自分の持論ではないことでも、相手にとって既知ことであれ、
新しいことであれ、「AならばB」の何かの論理を言う際に、必ず論理の
背骨にある「私の想い」というものがある。
その「想い」が広く伝わるには、何を考えていなければいけないのか。
表現できない想い、分かち合えない想い、
現実を変えられない想い、創造できない想いは、
想いではない。
本物の想いは、悲劇を祝福に変え、
分かれたものをひとつにし、閉ざされたものを開き、
自己のためだけに生きる者を
社会のために生きる人に変える。
そのような「想い」
言葉を通して伝えてはいるものの、伝わるのは言葉ではないものが
しっかり相手に伝わる。
これは伝え方の技術論ではなく、伝える者の「心のあり方」で大方が決定される。
その者は、命があるから生きているのではなく、使命と共に活気をもって働いている(行動する)からこそ、生きている意味がある者。
生死を超えて、自分自身を活かすことが、この生命の役目である者。
これらを必至になってやり尽すと、起きる現象がある。
自我なんてあるのかどうかの境目が曖昧になり、自然界に存在するあらゆる
こと、もの、人が分離されていないというか、ご縁があるというか、誰もが
ひとつに繋がっていることに気づく。
絶え間なく忙しく動く感情は、感情として静かに見ている存在がいることに
気づく。その存在は、他を区分する存在ではないことを一瞬で悟る。
そうなると、すべての存在にとって良い生き方を選択するようになるだろう。
その良い選択をするプロセスの中で、「自分なんて、ない。」
「自分なんてものがある。と信じる思考自体を存在させる思考があるのみ」
だと気づく。そして、この思考そのものを「私」というのかどうか、
他者からの認識点でしかない「私」は、関係性の中で認識点の「私」は、
点であって、点にはそもそも質量も何もそこにはない。
この無我になったときに、誤って自分で作り上げた限界は消え、
無限の創造のエネルギーがあふれてくる。
この無限の創造のエネルギーが「想い」であり、それは、私の想いであるのだが、
そこに「私」は本来的にないはずであり、伝わる「想い」なんだと思います。