Chaos Smart

「私は、私が無知であることを知っている」 複雑性、物事の根本に関わる深い叡智をえるブログ

就活生が面接対策をしたいのであれば、そんなことは辞めてしまったほうが対策に成功します。思考停止の同調圧力から自分を開放せよ。

仕事であり生き方でもあるので、就職活動をする学生に向けて、転職活動をする人材に向けて、10年以上にわたって、毎年必ず何千人という人数に講演・セッション・対話・面接・指導をやります。

 

就職先がどういう会社なのかよりも、どの業界、職種、大手か中小かベンチャーのどこがどうかという話よりも、まず最初にしていること。

 

また、その場の学生が真剣に聴いてくれて、生きるスイッチが入る話があります。

 

 

それは、『ビジネスに必要なことは、解決と創造。』 

あとは、人を動かす、巻き込む。

 

「自分のアタマで考える」ことができる人を求めています。
「答を聞いて覚える」こと「知識を増やす」ことを目指してもダメです、ビジネス。
知識。ではなく、ロジック(知識を使って成果を出す全プロセスに必要な深い考え) もちろん、感情も同等に大事。

 

論理の意義は、「知識も何もない所」から、自分のアタマで考え方を組み立て、

「答を導く」あるいは「新しい発見に至る」ことにあります。「教えてもらう」のではなく、「自分で考える」その考え方の「すじみち」を自分の力で身につけてプロセスです。

 

新しきを「知る」は、きわめて能動的な行為です。「受け身」でいくら眺めてもモノは何も語らない。「認識」を組み立てる「意志」がなければならない本当の「知る」には、至らない。

 

これについて、分かっていますか。

面接で問われることが何かと、問題を収集するような準備をする姿勢こそが、最もこの思考における姿勢からすると遠い行為です。

近い将来において、仕事ができるかどうかのポテンシャルに直結しています。 

ベーシックのコミュニケーション能力と同じくらい重要です。

 

他に大事なこととしては、3つあって、

 

ひとつめは、

 

志望動機の完成度(あなたがどれだけその職業に就きたいのかという想いや、その想いからくるあなたなりの努力の量なんかは特に)なんて、採用内定にほとんど関係ないということ。

 

関係があるのは、採用ターゲットとしての適正があるかないか。ということ。

志望度が低くても、適正が高くある人材は、企業が魅力づけをして、口説くだけです。これが真実。憧れは理解に程遠い精神活動であること知ってください。

 

ふたつめは、

 

「チャンスをください。チャンスをくれさえすれば、努力して輝いてみせます。」と、未来に輝く約束をするのではなく、今この瞬間に輝きを放つ人に、チャンス(内定)を渡すのです。

 

最後に大事なことは、ビックリするかも知れませんが、

LikeAbility(可愛げ)が高い人、態度を取る人がチャンス(内定)を掴みます。

 

カルチャーフィッティングやコミットメントを要件定義から外すと、これらが採用の論点です。これが社会の真実です。

 

あなたなりの企業分析をいっぱいやっても、あなたなりの自己分析をいっぱいやっても、あなたなりの面接の練習しても、セミナーにいっぱい参加しても、就職活動本をたくさん読んでも、選考プロセス情報を入手しても、殆どが、残念ながらそのほとんどが結果に繋がっていく人は、1000人いたら2,3名くらいです。(つまり、やり方間違っているということです)

 

 

感情については、ロジックと同様に大事と書きましたが、もっと突っ込んだ話をします。


そもそも、

 

「人は感情で興味を持って、頭で納得して、腹で動く。」

 

ということを、たいていの人は知らないんのではなく、どこかで忘れちゃったんじゃないかと思っています。

 

何を言ってるかというと、

 

私たちは仕事でもプライベートでも、人間関係においての多くの話し合いで「腹に落ちる」ことを目指している。


そのためには左脳ばかりつかって、論理的に話しているだけではどうもできにくい。私は、話し合いの状況を見るのに、「頭」「心(胸)」「腹」という見方で見ています。

「頭」「胸」「腹」は、精神活動と結びつくことは殆どの人が知っていると思う。

 

精神活動は知的側面と情緒的側面に大まかに分類可能であるが、「頭」と「胸」は、知的側面を担い、「胸」と「腹」は情緒的側面を担う傾向にある。

 

多くの企業では「頭だけでの話し合い」が多い。
頭で考えて、論理的に情報を整理して結論を出そうというものだ。
この場合、いい結論が出ても、その後なかなか行動につながらなかったりする。
問題が明らかで、原因分析により、解がわかりやすい時は「頭での話し合い」が有効だったのだと思う。

 

現在は状況が複雑化し、やってみなければわからないというチャレンジ要素を含んだ結論が求められる。

そういう状況では、「頭の話」だけでの結論では、なかなか事態が動かない。


「心の会話」というのは、「思い」や「感情」も出し合う会話である。
効率を求められる中では、「感情」なんかは扱いにくいやっかいな代物であるため、できるだけ排除される。しかしチャレンジ要素の入った結論しか出せないいま、その結論に対する人のコミットメント、つまり思いや感情はとても大切になってくるはずです。

 

だから話し合いの中に、十分に「心」が出し合える土壌がないといい結論には結びつかない。とは言っても感情だけでは、結論に達しにくいので、論理と感情を行き来するわけです。論理と感情がうまく融合したときに「腹に落ちる」のではないかと思う。

 

「頭で考える」のではなく、「腹で考える」のだ、という主張をしている方もいる。これをどう理解するかは難しいところであるが、一つの仮説として、人間はいまここでの答えを無意識に知っていて、それを対話や思索によって、探っているのではないかとも思えますね。


「うーん、ちょっと違うなあ」「ピンとこないなあ」という話し合いの途中に出てくる言葉は、出てきた意見と何かを照合している言葉だ。

 

このまだ未処理な感情の覚えた感じ。そのものを取り扱えるようになる(言語的にアウトプットができる)と、プレゼンテーションがはっきりします。最初の入り口は、何か分からないけど感じがする。からで大丈夫。ただし、面接までに相手の立場から理解できるアウトプットを出す必要ありです。

 そのために、企業個別の要点を分析し理解するのが正しいプロセスです。

自分の就業ニーズを知るために企業を眺めても新しき認識を確立しえない。

先にニーズが存在したうえで、相手を説得するために、企業を眺めるようにする。

さて、順番の違いの重要性、あなたにわかりますか。

 

 

 

教育をする最大の責任者は自分であり、自分を教育しようとしない人に教育は不可能である。

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指導者として教える立場として、自らも学び続ける立場として、

 

『人に教わるということ』

 

について、いつも考えます。

 

 

大人にとって、自分を教育する最大の責任者は、自分自身であり、

『己を教育しようとしない人に、教育は不可能である。』

と、信じている。学ぶテーマに強く興味があるかないか、必要なのか程度の消極的で、表面的な話ではない。

 

指導者を10年以上をやっていて、分かったことがある。


教育というものの根本は、指導者も学習者も、人間の可能性を信じるとともに、教育効果を期待してはいけないということにある。

 

 

さらにつっこんだことを言えば、

 

『教育というものは、人間を決して根底から変ええるものではない。』

 

これが、多かれ少なかれ教育にたずさわる人々によって、不都合で唯一最大のタブーなのかもしれない。

 

私も含め、自分の職業上の専門職としての立場からも、一種の美談好きの人々を下手に刺激しないためにも、教育によって人間はどんなにも変わり得る、という見解を皆がとろうとしている。

これが幻想であると飲み込むには時間がかかるかもしれない。覚悟がいることかもしれない。しかしながら、これが真実です。

 

教育によって変わったと見える場合も、それは他人の教育によって変わったのだと私には到底思えない。結論は、それは、その本人の自己教育によって変わったのだと思う。そして、その本人の自己教育に、他人が少々手を貸したにすぎないと考えている。

我々ができることは、究極的な状況と集中力を生み出す「場」になる、「風」になることだけなはずである。

 

だからこそ、私の中では、教わるということ自体は特別な行動ではないのです。

教わったことを実際に活かしてこそ「特別な行動」になりえる。その特別な行動の成果に到達するまでのプロセス・履歴こそが、価値ある情報だと信じています。

 

好きな四字熟語で肝に銘じている知行合一」(ちこうごういつ)があります。

 

『知って行わないのは、未だ知らないことと同じであること。』

 

私が教わる場合においては、即実践を徹底的に重視する。
そして、教えてくれた人の想像を超えてこそ真の力だと考えています。

 

教育とは、自分の不利益になることでも、時には自己をさし出せる程度に、

強く自由で人間として豊かな考え方ができるように、

自分を開発するのを目的とする場所なはずである。

利益になることしかしないのだったら、それは教育でも何でもない。
それは技術にすぎない。

 

こどもに教育が必要なら、親にも教師にも、それ以前に教育が必要なのである。

自らを教育しつつあるという姿以外に、子供に愛し尊敬される教育の現場はない。

それは教育の結果がうまくいっているかどうか(つまり教師に知識があるかどうか、親が物知りかどうか)ということとは直接関係ない。子供は結果と同時に、しなやかな心でその過程をみているものだ。

人が育つのは、プログラムではなく、プロセス。

 

伝える、伝わるではなく、生きる。

教えるように、生きているか。

 

指導に成功したいならば、それが全てである。

 

 

 

旅の目的地とは、もはや場所とはかぎらない。 むしろ、新しいものの見方である。

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滞在することが旅の目的となるホテルが溢れる世の中にあって、

 

『旅の目的地とは、もはや場所とはかぎらない。
むしろ、新しいものの見方である。』


出かける前から目的地の情報を豊富に与えられる現代のポピュラーな
「旅」において、人生の航路を変えてしまうほどの出会いや発見の感動は
得られるのだろうか。

 


野心ある探検家が、Googlemapも存在せず、観光写真が溢れるSNSもなかった
時代に、国家が探検家を支援し、貴族が探検家に投資をする。
投資家は私的な利益を期待するが、船が難破すれば財産を失う。


一種のギャンブルであり、しかし、成功の暁には、マテリアルな成果もさることがなら、なによりも、世界に「新しいものの見方」という公益がもたらされてきたはず。


体力と知力と気力に富むものが、探検の旅に出るということにおいても、命をかける
という点で、富める者が犠牲を払う精神を見ることができる。

 

1778年ヨーロッパ人として初めて、ハワイ諸島を発見し、ニュージーランドの海図を作成し、世界周航の公開日誌を後世に残した偉大な人物。

だけど、ハワイの神聖さに対して、自分を自分以上のものに見せたことで、殺害されたキャプテン・ジェームズ・クックは、「これまでの誰よりも遠くへ、それどころか、人間が行ける果てまで、私は行きたい」と、記している。

 

アイルランド生まれの南極大陸横断という偉業を成した、アーネスト・シャクルトン。彼は、探検隊の募集広告のコピークリエイティブと5000人以上を集めた成果、1年8ヶ月に渡って隊員27名を1人も欠かすことなく、絶望的な状況下で奇跡の生還の全員生還という成功を収めた手腕と統率力が、リーダーシップのお手本のような英雄だが、それよりも素晴らしいことをもたらしている。

 

「記憶のなかで、私たちは豊かだった。見かけの虚飾など突き破った。

私たちは苦しみ、飢えながらも、勝利した。腹這いになって栄光をつかみ、大きく成長した。光り輝く神を見たし、自然の物語を聞いた。人間の裸の魂に触れたのだ。」

 

この手記にあるように、自分の限界が試される旅で、シャクルトンは、もてる資源をすべてフルに発揮し、神谷自然や人間の魂の本質を掴んでいる。

これは、極限状態における人間の行動や考え方の手本として、示唆に富んでいて、

学術的な成果ばかりか、生きる意味や知恵という宝物を持ち帰った旅人の高貴なふるまいの中にノーブレス・オブリージュが課せられている態度を見ています。

 

現代において、「秘境」のスペースはどれほどに残っているのか。

前人未到な地など殆どない私たちが、「旅」で手に入る新しいものの見方とは何か。

 

chaos smartな「旅」について考えます。

「旅」をつくる空間がいかに、chaos smartなのかを考えます。

 

空間でいえば、例えばの解答のひとつが、タヒチに誕生している。


ハリウッドの反逆児だった俳優マーロン・ブランド没後の10年にあたる今年に、
タヒチ島から専用機で20分、手つかずの自然に囲まれた、彼が個人所有していた
テティアロア環礁の一部をプライベート・エコ・リゾート「ザ・ブランド」として
オープン。

 

太陽エネルギーやココナツオイルによる再生可能エネルギーを中心とする、世界初の
ゼロ・エネルギー使用リゾート。

 

環境保護を目指しながら、都会以上に快適な時間と場所を提供するリゾートは、
エシカル志向の強い最近のトレンドとしてほかにも続々誕生している。

例えば、タイのシャム湾、カンボジア国境近くに浮かぶクッド島のエコ・リゾート、
ソネバキリ。昔からの原風景を残す自然環境の中に、ラグジュアリー・エコ・リゾート、36棟のヴィラ「ソネバキリ」がある。

 

合言葉は、「No news, No Shoes(ニュースを見ない、靴を履かない)」。
靴を脱ぎ捨てて素足で過ごすことができる非日常の快楽を保証する。


コンセプトは、持続可能で、地元に根付いた、有機的な、心身ともに健康な、学びがあり、刺激があり、楽しい、数々の経験。

 

環境への負荷を最小限に抑えるように配慮された場所で、日常生活で疲れた心身を癒しながら、学びも得られるリゾート。

 

ソネバと同様のコンセプトを持ち、マーロンの「ザ・ブランド」は、オール・インクルーシヴのリゾート。

人生が激しく動く、新しい物の見方を獲得する、

いわば、21世紀型ラグジュアリー・エコ・リゾート。

 

 

 

地球の自転を認めながらも、日の出に感激し情動を起こせる人間の幻想に生きる感性が あれば、知覚できうる幻想は現実に変換することが、抑制の抑制を使えば可能となる。

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アドレナリン、ノルアドレナリン、セロトニン、オキシトシン、コルチゾール、テストステロン、メラトニン、アセチルコリン、ドーパミン、エンドルフィンなどの神経伝達物質の存在とその役割の多くが知られてから久しいですが、これらの活用については、全てに注意を払うべき立場であり、全てをコントロールできる訓練を積むべき立場をとっていますが、その中でも最も注意を払うべき


「エンドルフィン」について。

 

「苦しみを乗り越える」ではなく、「苦しみ=即幸福」とする神経伝達物質である「エンドルフィン」


ストレスに反応して脳下垂体より分泌したエンドルフィンは、大脳皮質、視床、脊髄などに分布する「オピオイド受容体」に結合し、鎮痛作用の他、胃腸運動の減少、縮瞳、多幸感、除脈、神経伝達物質の抑制作用などの機能を扱います。

 

このオピオイド受容体は、モルヒネやヘロインなどの麻薬とも結合します。
オピオイド受容体があるがゆえに、麻薬の「多幸感」や「恍惚感」にとりつかれて、
麻薬中毒になる人たちもいます。

 

そんな危険な受容体が、私たちの脳の中に存在しているのは、理由があります。
麻薬のためにオピオイド受容体があるのではなく、最初から人間の体内には、麻薬と
よく似た物質が存在しています。つまり、エンドルフィン。

 

エンドルフィンの分泌でも、モルヒネを投与したときと同じように、「多幸感」「恍惚感」が現れます。それゆえにエンドルフィンは、「脳内麻薬」とも呼ばれています。

エンドルフィン(endorphin)という名前からして、内因性を表す「エンド」とモルヒネのフヒネにあたる「ルフィン」をつないで作られています。
エンドルフィンとは、自分で分泌するモルヒネ様物質、「内因性モルヒネ」という意味なのです。

 

アヘンに含まれるモルヒネは、たまたまエンドルフィンと類似した構造を持ち、オピオイド受容体と結合してエンドルフィンと同様の効果を発揮することができました。
そのおかげでモルヒネや、そのモルヒネから作られるヘロインなどが、麻薬として使われるようになってしまったわけです。


エンドルフィンは、「α」「β」「γ」の3種類があります。このうちβエンドルフィンは、苦痛除去のときに最も分泌されます。この鎮痛作用は、「モルヒネ」の6.5倍の強力な鎮痛作用を持ちます。

 

人間もしくは、動物にこのエンドルフィンがセットされているのは、これがなければ絶滅していたはずなので、進化の過程でセットされたのだと思います。

 

というのも、野生のライオンが獲物を捕獲できる確率ですが、20%を切っているのが一般的です。


全力疾走で取り組んでも、10回に1回しか捕獲に成功しない。

脳が「快」「不快」によって、ホルモンの分泌を決定していますが、「不快」で発生するアドレナリンやノルアドレナリンだけの闘争本能剥き出しである火事場の馬鹿力だけでは、ストレス性ホルモンのコルチゾールが上がり続け、獲物が捕れなかった際のストレスの回収がありません。その際の身体と精神への疲労が回復できない。

 

どれだけやっても何をやっても捕れなかった。そして、捕獲にエネルギーを使い、捕獲ができていないためにエネルギーの補給ができない中で、ストレス値が上がり続けた状態で、更なる捕獲行動を起こす。

 

9回連続で失敗し続けていて、腹が減り、体力の限界であり、意識が朦朧とするなかで、先の9回よりも質の高い捕獲行動に出れるには、エンドルフィンのおかげです。


この生きるか死ぬかの究極のストレス状況だと脳が判定した際に、苦しさをバネに変えるのではなく、苦しさ=幸福感として分泌するのがエンドルフィン。


狩猟型で生活をしていた人類も、このファンクションが無ければ絶滅していたでしょう。


農耕型になってからは、活性化されなくなっただけであって、脳の機能としては今も残っています。


エンドルフィンという物質が存在している理由は、怪我や病気、その他のストレスによって引き起こされる「痛み」や「苦しさ」それを「幸福」に転換し、ストレスから心と身体を守ってくれる物質がエンドルフィンです。

 

エンドルフィンは「究極のストレス解消物質」と言えるでしょう。

 

エンドルフィンの生成過程を見ると、ストレス解消物質としての特徴が、より明確になります。
βエンドルフィンの前駆物質は、「プロオピオメラノコルチン」という糖タンパク質です。これは、ストレスを視床下部から脳下垂体が受け取るなかで生成されます。
この物質からプロセッシングという断片化を経て、βエンドルフィンや「ACTH(副腎皮質刺激ホルモン)」「βリポトロピン」などのホルモンが作られます。

 

ACTHは、ストレスホルモンである「コルチゾール」の分泌を促すホルモンです。
ACTHもエンドルフィンも、ストレスに応答して分泌されているストレス解消ホルモンです。
ただ、両者は役割がやや異なり、ACTHは主に「身体的ストレスの解消」に、エンドルフィンは主に「精神的ストレスの解消」を担っています。

 

また、エンドルフィンは過度のストレスがかかった限界状況において分泌されると言いましたが、実はそうではない場面でも分泌しています。

 

それは、「癒された」「リラックスした」と感じられる瞬間です。
つまり、心と体がリラックスした状態で、脳のα波が出ると、エンドルフィンが分泌されます。

 

この脳の「快」「不快」のいずれにも結びつけることができる非常に稀有なホルモンです。それであれば、「快」刺激に反応するドーパミンと結びつけることが何が起きるのかが最も重要になります。また、ドーパミンとエンドルフィンはシナジー効果の最たるものであって、この2つを融合した際のアウトプットが進化の過程で必要だっと思わせてくれるほどの相性のよさです。

 

理由はこうです。

 

人間の脳には、ドーパミンを制御する仕組みとして「GABA神経」があります。

そして、エンドルフィンはこのGABA神経を抑制する働きがあります。

ドーパミンを抑制するGABA神経を抑制することで、ドーパミン遊離を促進するのです。

 

快刺激に対して生成されるドーパミンも、エンドルフィンと組み合わされると、ドーパミン単独の10~20倍の快楽、幸福感が得られます。

『抑制の抑制は促進作用となります。』

 

この条件を満たせた時に、どんな人間でもフロー状態(ゾーン状態)に入れます。

 

心理学者チクセントミハイの言う:フロー状態

 

1つの活動に深く没入しているので他の何ものも問題とならなく状態、その経験それ自体が非常に楽しいので、純粋にそれをすることのために多くの時間や労力を費やすような状態。絶対的な集中状態。

 

私の感覚では、

 

凄まじい集中力が発揮されていて、その状態が楽しく深く没入している状態でありながら、頭脳はきわめて明晰で、その状況や活動を自分でコントロールできる状態です。この状態には、「あっという間に時間がすぎる」あるいは、「時間が止まったように感じられる」などの「時間間隔のゆがみ」が伴います。

 


実際に究極の生きるか死ぬかの現実に直面せずとも、脳にこのような状況であると幻想を現実とできる人間のポテンシャルを適切に当て込めば、日常の中で発生させることは可能です。


フルマラソンを完走した人だけが、そのプロセスで経験するランナーズハイもエンドルフィンがその正体ですが、もっと手短に洗練されたエンドルフィンの生成とドーパミンとの相乗効果を生み出す方法があります。

 

chaos smartを行う上でのプリバレーションとしては、エンドルフィンの活用が必須。

これらを市場に提供する日も近いと感じています。

 

 

挑戦的であり、攻めにまわれない経営企画機能だったら、あなたたちが得意な組織論により、自らがこの機能を破壊すべき。

経営企画業務。

wikipediaだと、以下のような定義。

経営企画(けいえいきかく)とは企業などの組織体が定めた経営戦略に方向付けられた中長期、または短期の計画立案、およびその遂行にあたり最適な経営資源の配分を行うことである。

「経営企画」の定義は組織体によって千差万別ではあるが、「経営戦略、経営計画、経営組織を立案し、業務監査に関る機能」[1]とされることもあり、会社の政策を樹立し将来の絵を描く機能[2]、とも言われる。

また、「戦略目標を指向した計画の立案」と「遂行に当たって経営資源の最適配分」はトップマネジメントから経営企画部門に期待される機能と言えよう。

企業の成長の時間軸に沿って考えてみると、まだ小規模な段階の会社においては、経営者自らがこうした業務を行うことが多い。だが、従業員数が125名程度を超えると、企業は質的転換を迫られ、社長個人の直感に頼ってばかりはいられなくなり、組織に経営企画機能をしっかりと持たせることが必要になる[3]ともいう。

規模の大きな企業においては、経営企画は本社機能の一部とされ、その機能を持たせるために「経営企画部」や「経営企画室」といった部署がおかれ人員が配置されることがある。これは職種としての「経営企画」が存在していることも意味する。

 

これって、全くわからない。

そして、世の中の理解もこの程度なんだろうと思います。

 

タスクを書き下しても、さらに分けがわからないだろう。

 

・経営方針と中期経営計画や単年度経営計画の策定(利益と資金計画)
・単年度経営計画や中期経営計画のBS・PL・CFの予算実績管理を実施
・予算編成業務全体のマネジメント、予算管理制度、予算規定の作成
・新規事業計画立案や既存事業の撤退を判断
・必要に応じて組織の改革と再編をリードする
・株主や投資家へ経営、財務状況、業績動向等の情報を発信するIR活動
・マーケティング業務(組織に専属部署がなく営業部でもマーケティングの仕事をしていない場合)

 

以上のように、全社視点で行う業務が色々あるわけですが、

 

経営企画室で、働くこと
経営企画室と、働くこと(コンサルタント)

 

どっちでもいいが、社長直下で戦略参謀機能である経営企画という世界に誤解があるように思う。


これって、プロパーで新人がこのセクションの実務者になってはいけないセクションです。また、CEOと経営企画が本来担うアジェンダで、仕事をしないコンサルタントは、経営コンサルタントではない。

 

成功した創業社長の頭の中の最後の分業により生み出された機能=経営企画であることが分からず、経営企画所属で経営企画室のタスクをやっている人材が散見する。

 

大前提として、

 

会社は、事業を発展させるために、そしてその発展に従って、社内の体制をつくっていかなければならない。事業が拡大すれば、それに応じた組織能力が必要になる。

 

『組織論は上手な分業推進の技術論。
 マネジメントは、その分業体制の運営技術。』


組織の分業推進の観点で整理すると、経営企画は、

 

リーダーシップの発揮だけは、最後の最後まで社長が自身で担わなければいけない役目だが、それ以外のことは、基本的に組織による分業が可能。

その上で、今ある営業や商品、管理部門などの組織ではカバーできていない、会社の運営を安定化させ、発展させるために必要な機能。

 

経営の意思としてやらなければいけないが、それを任せられる部門がない課題や仕事を請け負う、あるいは推進するのが、これを全て担わなければいけないのが経営管理も含めた経営企画、つまり戦略参謀機能ということになる。

 

結局、経営企画はトップにとって最後の分業になるということ。だから、本来、最も入念につくり込みをしなければいけないのが、この参謀機能。

 

この仕事は、「こんな感じがいいと思います。」という程度の表現で進められるものではない。誰よりも分析もし、言葉にして、何がポイントなのかを抽出して人に上手に伝え、全社視点での動きを創っていかなければいけない仕事。スタートアップの経営者であれば、人手不足かどうかに関係なく、全てをCEOだけでやる仕事。

 

大きな組織でも、社長のやるべき仕事の一部、つまり重要な課題への対応を自ら代行して、自分で判断をしながら動いていく。

 

成功した経営者だったら、こう動くだろうという動きをやれる人材が担う仕事。バックオフィスの叩き上げで、経営や事業の責任者を担ったことのない人材がやる仕事では本来あるはずのない仕事。アントレプレナーシップがない人は担うべきではない、担わすべきではない仕事。

 

戦略参謀機能だから、頭の良い人の仕事、エリートの仕事というイメージが先行しているのだが、大きな間違い。同じく、所属できていることでエリートになれたというのも大きな間違い。エリートじゃないから、向いていない。と考えるのも大きな間違い。

 

そもそも経営なんて、IQが高いだけの奴が偉そうに理屈をこねてできるもんじゃない。もし、そういう連中がエリート意識をもって、参謀機能に相当する部署に集まるとロクなことがない。

しょうもないプライドに固執したり、知恵を使って保身に走ったりする。会社のために、市場のため、社員のため、そして社長のためにどう機能させるべきかという明確なイメージを、社長、そして参謀機能の長がしっかり持たないといけないし、実行力

、推進力が必須。トップに引け劣らないリーダーシップが本当は必要です。

成功するために苦言もトップへの配慮を持ちながら、言えるセンスも必要。

 

ただし、

 

トップに自ら進言してくるドン・キホーテみたいで、かつ、まともな人材なんて、そういるもんじゃない。社内の声をまとめることのできる感性の高さと能力もいる。

 

まとめると、


経営企画室というと、なんだかエリート集団のように聞こえるが、本来の戦略的な参謀機能としての経営企画室は、「企業のあるべき方向に向かって挑戦的であり、攻めにまわった動き」をしなければならない。


なぜならば、成功した創業者は、そう考えて動いていたはずだから。
成功した創業者の精神に最ものっとった動きをする機能です。

 

この「あり方」を間違えずに、経営戦略、計画、管理を担える人材は、タスクをめいいっぱい行ってください。競合の想像を超えたスピードで経営のPDCAを回してください。以下に書いてますが、学習する範囲は、かなり広いです。経営企画。

 

・経営計画と予算の関係、予算体系
・経営計画作成プロセス概要
・外部環境分析
・内部環境分析
・経営戦略
・財務における運転資金
・運転資金と回転期間の関係
・キャッシュフローの改善方法
・営業キャッシュフローの算定
・設備投資総額の目安
・フリーキャッシュフローの算定
・借入金返済額の算定
・現預金残高の算定
・新規借入金調達額の算定
・内外環境分析と戦略決定の流れ
・財務戦略の決定
・財務目標の決定
・売上高計画値の算定方法
・中長期財務計画作成手順
・非製造業・製造業いずれかの中長期財務計画の作成
・短期借入金と長期借入金のバランスの取り方解説
・バランスシート分析のポイント理解
・予算編成業務全体像
・予算編成方針骨子と素案
・予算編成方針作成プロセス
・部門別予算平成業務の注意
・経理財務ができないシミレーションによる当期着地見込作成
・シミレーションによる総合予算と各予算表の作成
・人件費予算作成
・販管費予算の作成
・経費精算業務の効率化

・適正在庫の基本的な考え方
・商品毎の利益貢献度の理解
・財務指標の棚卸資産回転期間の限界
・最も利益貢献度が高い商品の見極め方
・適正在庫の計算式と作成のポイント
・月別の売上予算・仕入予算・在庫予算を作成する際の手順とポイント

・製造予算の作成方法概要
・製品別作業工程表の作成
・製品別生産計画・製品別在庫予算表の作成
・製品別、直接材料費・直接労務費・直接経費・製造間接費予算表の作成
・製品別製造原価予算表の作成
・仕掛品評価のポイント
・実務において計画と実績を防ぐ方法
・各予算表と各収支表を完成させた後に見るポイント
・最低保持すべき現預金残高の理解
・財務の基本
・バランスシート分析の限界
・金融機関や格付機関が重要視するキャッシュフローのポイント
・キャッシュフローの状態を掴む分析手法
・上場企業の財務データを利用して財務分析
・予算と実績のギャップ原因
・ギャップを撃退する対策
・経営の見える化について

おもてなしは、たんなる臨機応変なサービスではない。そして、定型化の先にある余裕が必要なもの。

仕事に関連して、「おもてなし」について話す機会がわりと多く

バーテンダーをやっていた時から、大事にしていたことなのだが、

何かの「おもてなし」の動作を私がするとき、お客様に気づいてもらえるかどうかを全く考慮しない。

 

むしろ、顧客の無意識に同調し、無意識的な行動に対して先回りした動きをするために、「おもてなし」そのものが知覚できないレベルを目指していた。(これは、現在のコンサルタントとしても、人材開発でもカウンセリングでも同じ。)

 

「おもてなし」は、「サービス」とは違う。


通常は、企業が提供した製品やサービスの便益を、顧客側が認識して初めて価値が生まれます。この価値の対価は支払われるべき。これで正解。

 

そのためには、期待どおりでも、期待を超えていても、「顧客が知覚できる行為」を行う必要があります。

 

でも、「おもてなし」は、違う。


いちいち「私はあなたに心遣いしていますよ」とアピールすることは野暮だと考えている。むしろ「伝わらないくらい、さりげない方が美しい」と信じている。

こちらの気遣いを察知したお客様が、心理的に負担を感じるようなことは避けます。

 

茶道の真髄にゆかりがあって、

 

「人生で最高の喜びはひそかに善をなし、偶然それがわかるようにすること。」

 


バーテンダーで言うと、

 

常連のお客様が、「いつものマティーニを。」と言われても、その方のアルコールの摂取量と食べてこられた舌の状態を判断してから、少しだけ作り方、比重を調整している。

 

そのかいあって、「あなたが創るいつもどおりのマティーニを、ありがとう。」と反応をもらいます。

 

そのお客様の味を知覚する機能が低下していても、イメージにある「いつもどおり」を実現するためには、こちらの何かを変える。だからといって、それを説明しません。そして、いつもと違うと怒られるようなミスもしない。


もう少し簡単なことだと、

 

お客さまの前にドリンクを置く時、1杯目は右斜め前の定位置に置くものの、2杯目以降は置き場所をさりげなく変えている場合もある。

 

お客様は無意識のうちに自分が飲み易い場所にグラスを置くので、その位置を覚えておいて、2杯目以降はその場所にそっと提供する。


多くのお客様は気づかないでしょうが、これもまた、わざわざお客様に知らせる行動はとりません。居心地よい時間を過ごした結果、お客様が最終的に「今日は良い時間を過ごせた。またこの店に来よう」と思ってもらえば、もてなす側の目的も達せられたとはず。

 


つまり、

 

「相手が気づく」ことを前提にして提供するのが通常の商品・サービスだとすると、おもてなしは「相手に気づかれなくても構わない」、あるいは「気づかれないほど、さりげない方が良い」「それでも、わかる人にはちゃんと伝わるだろう」といった考えで供されることが多いのです。


そのため、店側はこういう行為を最終的には知覚できるお客様かどうかを、こちらも観察しています。

 

「客ぶり」がいいかどうかを、お客様に問うてます。

 

顧客がおもてなしの価値を認識するかどうかは、相性や顧客の察する能力に依存する。文脈を共有できていない人が楽しむにはハードルが高いハイコンテクストなもの。

 

このように、お客様を限定して洗練された場の空気を楽しむようなおもてなしの世界は、日本独自の文化だと思います。

 

本来は、特別な顧客に向けて、ニーズの先回りをして行う「おもてなし」を、

不特定多数や、全ての顧客に平等に提供するとなると、

 

そういったビジネスの中に、おもてなしを取り入れて手広く展開していく場合は、

おもてなしを顧客が楽しむハードルを多少は下げてくこと、

顧客の認知作用を先回りした形での定式化・標準化をする必要がある。

 

ちなみに、標準化は実は「おもてなし」と相性が悪くない。

理由は非常に簡単で、

定型部分を標準化するから非定型部分に注意を払う余裕が生まれる。

 

形式美にこだわる日本文化の本質の一端は、ここにあると思う。

 

奥が深い「おもてなし」は、一部の天才や長年の経験を積まなければいけないと誤解されているきらいがあり、「標準化に頼ると、サービスの進化が止まってしまうのではないか」という拒絶反応がよくある。

 

これは大きな誤解で、「規格化」と「標準化」は別物です。

 

「規格化」には一度型を決めたら、それに従わざるを得ないニュアンスがある。

 

一方の「標準化」の本質は、型にはめることではなく、再現性を担保する点にあります。あくまで再現可能性が大事なのであって、既存の型を逸脱していてもそれが従来の標準よりも優れており、かつ他の従業員や店でも再現可能なのであれば、新たな標準として取り込んでいけばよいだけ。

 

問題は「標準化」そのものではなく「その運用」の側にある。あしからず。  

 

 

心理療法のクライエントが選びとるのは「生き方」であって、心理療法そのものではない。

 

「NLPが治してくれるのではありません。あなたが自分で治すのです。NLPはただ、どうすれば自分で治せるのかを完璧に教えてくれるだけです。」

 

これに関しては、ビジネスコンサルタントとマインドセットがよく似ていると考えています。 

 

コンサルタントが、魔法使いのようにクライアントの問題を解決する方法はない。が、提案を実行してもらえれば、必ず変化及び成果を体験できると信じている。

だからこそ、クライアントが当事者意識をもった実行を創出するかにすべてがかかっている。

 

コンサルタントがクライアントの進めるプロセスを手伝うという関係ではなく、結果を出すために、クライアントがコンサルタントのアドバイスを積極的に試していく関係が成立するかどうか。ここを重要視しています。

 

さて、セラピーとしてのNLPですが、

 

NLPは、治療目的で結ぶ関係の重要性を理解していないように一見思えるが、NLPの心理療法を根底から支えているのは、まさにこの関係に新しく画期的な枠組みを与えたものだと考えてもいいのかもしれない。

 

NLPは、治療法というより、教育法であり助言法であると思います。

保護することよりも力を与えることに、単に維持することよりも変化をすることに力を注いでいる。

 

さて、たいていの心理療法士は、それぞれの独自の名称をつけて、NLPの体系にある、アンカーも使えば、戦略のインストール、サブモダリティの変換、トランスワーク、パートの統合、タイムラインの変更、リフレーミング、課題を与える、対人関係に取り組む方法、生理状態に働きかける方法も使っている。

 

その中で、優れたセラピストは、

消極的なクライアントに対して、やみくもにNLPという爆発物を投げつけるような真似はしない。クライアント自身の能力(分離・統合、チャンク・アップ/ダウン)や、時間的な志向(インタイム、スルータイム)、焦点を絞っている神経学的レベルにマッチし、それを拡大できるような学習法を、クライアントとともに設計していくことが求められている。

 

コンサルタントのいくつかの原則を示すと、

 

・コンサルタントには、アドバイスを与えようとする分野について相応の専門知識があり、クライアントと協力するプロセスについても同様に専門知識がある。

 

・コンサルタントは、公式・非公式にかかわらず、「雇用され」なければならない。つまり、要請に対して、その専門知識を提供するのである。この関係を満たせていない状態での他者を助けたい気持ちや、優しさだけで、他者の生活に干渉するのを楽しみにしている人ではない。

 

・コンサルタントは、クライアントの目標を引き出し、明らかにし、それを達成するために働くのであって、自らの目標のためにそうするのではない。自分の有用性を売り込もうと粘ったりは本質的にはしない。

 

・クライアントは自分自身のすべきことに責任をもたなければいけない。コンサルタントの提案をすべて実行する。あるいは、しない。という責任がある。この責任を果たさないのは、コンサルタントの働きにほとんど重要性を認めていないということ。

コンサルタントは、コンサルティングのプロセスに責任をもつ。クライアントは自分の本分に責任をもつ。その上にしか本物の成果は存在しない。

 

・コンサルタントはプロとして、機密を保持し、クライアントとの重複関係を避けるなど、特定の明快なガイドラインに沿って行動する。

 

こうしたコンサルタントの役割をそのまま採用すれば、まさに優れたカウンセリングの治療プロセスの一部となります。

 

クライアントは無力な犠牲者などではなく、クライアントの生き方の原因はクライアント自身にあるとして、治療にあたるべき。NLPの姿勢もコンサルティングの姿勢も同じでいい。

 

最後に、

ヴァージニア・サティアがこう語っている。

 

『セラピストという仕事は、なかなか恐ろしい仕事だ。それにふさわしくあるために、常に自分の人間性を磨き、完成を目指し続けなければならない。わたしたちが取り組むのは人間の人生である。思うに、セラピストになるということは、配管工になるのとはわけが違う。配管工なら、普通、技術があればなんとかなる。セラピストにはそれ以上のものが必要だ。パイプを修理するのに、そのパイプを愛する必要はない。・・・・私は指導に当たるとき、セラピストの個人的特性に徹底して注目する。人間が人間に取り組むのだ。まず自分自身を愛し理解できなくてはならない。そして、相手をよく観察し、よく耳を澄まし、充分に触れて、理解できなくてはならない。さらには、よく観察してもらい、よく聴いてもらい、充分に触れてもらい、理解してもらえるような状態を創りだせなくてはならない』[Satir and Baldwin, 1983,pp227]